先日のトークイベント「厳冬カナダ2万2000キロをふり返って」、こんなかんじだった。
大衆に感動を与えるとか夢を共有するとかそんなぺらっぺらなもののために行動しているわけではもちろんない。
それでも自分の言わんとすることがとりわけ幹の部分がなんとなく伝わるとうれしい。
いっぽうでそういうのはやはり受け入れられない、という拒絶反応もまたあっていいと思う。
その人なりの道を歩けばいい。
人ってみんなちがっていていい。
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山小屋の夜。田中幹也さんの白い世界
かなり大ざっぱな比較。
日本人とカナダ人との登山における価値基準の話。
たとえば日本人だと山頂に立てなかったときにもったいないとよく言う。
せっかくあそこまで行ったのに。
それに対してカナダ人だと自然のなかにいるのに、あくせくすることをもったいないと表現する。
登らなくても幸せといえるのに。
(くどいようだけれどあくまでも超大ざっぱに見ての話だよ)
(じっさいには日本人にもカナダ人にも各々のタイプが居る)
日本の山(自然)とカナダの山(自然)とおなじくらいの時間を過ごした自分のなかには、気づかぬうちに2つの軸ができてしまったようだ。
ひとつは厳しい自然や自己と対峙して、それらを克服してゆくよろこび。
もうひとつは雄大な自然のなかでのびのびと旅をして、ときおり感じるやさしい時間。
この2つが自分のなかでとくに対立することもなく、ごくしぜんに座っている。
そうした2つの軸で行ってきたのが、これまでの自分の山旅の軌跡である。
だから一行では語れない(笑)
何かをはじめるときに年齢が若いと、まだ早すぎると横槍が入ったりする。
何かをはじめるときに年齢をあるていど重ねていたりすると、こんどはもう遅いと横槍が入ったりする。
年齢に関係なく何かをはじめるときに、平和ボケした傍観者の横槍は定番なのかもしれない。
むしろ早くスタートしちゃうのは他人よりも情熱があるから。
他人よりも遅れたスタートができるのもこれまた情熱があるから。
そもそも歌の歌詞やドラマではあるまいし、何かをはじめるときに好条件がピタリとそろうなんてことはあまりない。
ハンディ抱えつつもはじめるものだ。
自分の弱さを見せることができるって、弱さだろうか強さだろうか。
自分の弱さを一生隠しつづけることができるって、弱さだろうか強さだろうか。
きょうはトークイベントに急遽飛び入り参加した。
タイトルは「自分の可能性に恋して」。
おもに服部文祥と台風直撃登山について話した。
・今の登山はかんぜんにレクリエーションになっている。
・行くなら人に会わない山がいい。
・今の登山者は向上心がない。
どちらからともなくそんな会話になった。
わずか10分ほどやったけど、なんとも痛快だった。
気分スッキリ!!