昨夜読んだ本。
『ふたりのアキラ』(平塚晶人著)
映画のラストシーンように冬の北鎌尾根で壮絶な最期をとげた松濤明をもっと知りたい。
(松濤明についてぜんぜん知らんかった(笑))
昭和のはじめ、十代ですでに谷川岳一ノ倉沢や穂高岳の岩壁を単独登攀したり冬の南アルプスをひとりで長期縦走していたことは、もちろん知っとる。
記録ではなく紀行文が書ける人であることも、昔から知っとる。
垂直にも水平にも強く書ける人、だけではなかった。
松濤明はモテた。
モテたというよりも女心を揺さぶった。
そういう話が、この本には書いてある。
きのう読んだ本。
『新編 風雪のビヴァーク』(松濤明著)
いまさらながら、じつは読んだのはじめて(笑)
もっとも有名な昭和24年冬の北鎌尾根の遭難。
当初の予定では、北鎌尾根を末端から槍・穂高岳を経て焼岳までの縦走だった。
期間1カ月間、サポート、デポなし(直前にP2と天上沢の岩小舎までは荷揚げあり)。
80年ちかく前、テントひとつとってみてもいまの数倍の重さ。濡れて凍ったら想像つかない。
仮にいまの時代の装備や食糧でも、冬の北鎌尾根を1カ月分の食糧燃料を担いで登れる人が、果たしてどのくらいいるだろうか。
(自分でも冬のカナダの山で1カ月分の食糧燃料を担いだことがあった。スキーをふくめると50kg超えた。オイラの実力ではまず無理(笑))
あらためて松濤明の登山家としての実力が浮かびあがってくる。
昨夜読んだ本。
『冬のデナリ』(西前四郎著)
いまから約60年前、当時まだ冬季未登だったマッキンリー(6194m)に挑んだ話。
自身の体験を小説風にしたてあげたもの。
1967年2月にアメリカ人とフランス人とともに。
著者は登頂こそ逃したものの、極寒のなか山頂直下まで迫る。
(同行者は冬季初登頂に成功)
この著者は関西登高会に属し以下の記録がある。
・1964(昭和39)年6月〜7月
ユーコン、セント・イライアス(5489m)(第3登)
・1965年(昭和40)年6月〜7月
マッキンリー(6194m)サウスバットレス・東稜(初登)
もちろん一部クライマーからは評価されているものの、一般的にはほとんど知られていない。
ちなみに日本人としてはじめて三大北壁のひとつマッターホルン北壁に芳野満彦らが成功したのが1965年であるから、当時の登山界の動向もなんとなくつかめるだろう。
きのう読んだ本。
(何年かぶりに再読)
『山の旅人 冬季アラスカ単独行』(栗秋正寿著)
1998年マッキンリー冬季単独登頂を皮切りに、20年以上にわたり気温マイナス50度、風速70メートルの冬のアラスカの山に通いつづけた。延べ846日滞在。2011年植村直己冒険賞受賞。
2016年アラスカにひと区切り。
ところで、若いときに激しい登山に没頭していた人は体力が低下したらどうするのだろうか。
経験を生かしてガイドになったり写真家になったりした人がまわりに何人かいる。
あるいは登山に向けていた情熱を仕事に注ぎ成功している人もいる。
栗秋正寿は、いま海のよく見えるちいさな山の麓に居をかまえて静かに暮らしている。
必要以上に過去にとらわれないのも、自由でいいではないか。
きのう読んだ本。
『アラスカ物語』 (新田次郎著)
(いまさらやっと(笑))
本の内容は、有名なので略。
まずは自分の話から。
30年以上前、夏のアラスカのユーコン河を1カ月かけてカヌーで旅をした。
楽しい日々だったけれど、物足りない日々だった。
最後にのこされた辺境の地というキャッチコピーで、それなりのドイツ人や日本人が訪れていた。
こんなの冒険でもなんでもないじゃん。
浮世離れした桃源郷を求めていたわけではなかったけれど、旅の思い出として残る場所ではなかった。
ところがこの『アラスカ物語』を読んで、夏のユーコン河の印象が一気に変わる。
明治時代の話だけれど、どんな場所にも歴史がある。そこには人の喜怒哀楽もある。
自分のなかでかつてつまらない場所だった夏のユーコン河が、この本によって急に意味の深い場所になった。
なんでもかんでも、すぐに消化しなくてもいいのかもしれない。いまわからなくても、やがてわかるときがくるのかもしれない。
【深谷明をなぜ選んだのか】
まず深谷明は今シリーズの他の人たちのように黒部横断30回、厳冬の沢登り、大学9年、千日回峰といった強烈さがない。海外の記録もなければ初登攀もない。では、ほかの人たちとどうちがうのか。以下のようにまとめてみた。
◇
二十一世紀にはいると長期・長距離縦走において斬新な記録はほとんどなくなった。このころ台頭してきた長距離の山岳レースの上位者は、山屋ではなく競技選手で占められる。夏は1日1アルプス、残雪季は立山〜上高地をワンデイ。
そうしたなかで目についたのが、深谷明の冬の連続縦走。2011年1月から3月にかけて歩いた、太平洋〜南アルプス主稜線〜八ヶ岳主稜線〜北アルプス主稜線〜日本海。距離およそ500km。街での休養は3、4日足らず。準備をふくめたら休養なしだ。2009年の冬は、奥羽山脈を26日間歩いた後3日間はさみ、南アルプス南部を13日間縦走。さらに下山して1週間後には、北アルプスに24日間入山している。果たして疲労が回復するのだろうか、あるいは志気は持続できるのか、といった疑問がわいてきた。
1975年3月から4月にかけて日高山脈全山縦走を行った細貝栄と工藤英一は、下山後に利尻島の登攀を計画していたが体力、志気の低下で中止している。また自分でも連続縦走を試みたことがある。冬のカナディアン・ロッキーを1カ月縦走したあと、1週間の休養をはさみセルカーク(カナディアン・ロッキーの西隣)山脈で2週間の縦走を計画した。でも下山後、身体はガリガリになり咳が止まらず、連続縦走は中止した(いちおう縦走最終日は山中でテント、シュラフ、ウエアをかんぜんに乾かす。下山した翌日の午前中にはバンフの街の高尾山クラスの山に登り、午後から図書館で調べものしたが、夕方から疲れがドッと出て完全に終った、、)。
冬の連続縦走が体力的にもモチベーション維持でも、いかに困難か。じっさいに試みた人があまりいないから、深谷明のスゴさを検証できる人もすくない。前々回の溝江朝臣の冬季の徒渉のように。何時間、何kg、何km、何°Cといった数値にはあらわれない難度がある。
もしかしたら深谷明は自身の長所に気づいていないのではないか。短所とちがって長所は自分もまわりも気づきにくい。1カ月ちかく冬山を歩いても、体力も志気も極端に低下しない。とはどこにも書いてないが、すぐにまた長期・長距離の縦走に出かけるのだからそういうことだろう。溝江朝臣も年間を通じて頻繁に山に入るが、それでも大きな山行を終えるとつぎの山行まで1カ月は空けている。
いずれにしても冬の連続の長期縦走は、ざっと調べたかぎりこれまでに例がない。二十一世紀になってはじめての記録ではあるまいか。気合で歩けるだろ、と飲んだ席で語る傍観者はいるけれど、実際にやった人は深谷明のほかにはいない。
◇
1、輝かしい長期縦走をはじめる(二十代前半)までがさらっとしか語られていない。
→あえて語るべきことがなかった期間が長いほど、その後により大がかりな計画の実践へと昇華されるのではないか。最近読んだほぼ同年代(深谷明とおなじ1972年生まれ)の別の人の手記を読んでもおなじことを感じた。自分にもあてはまる。ある写真家の言葉で、「雨音を聞きながら悶々と過ごす時間が納得のゆくシャッターチャンスをつくりだす」
2、他者が評価する山行と当事者が充足する山行とのあいだに、ときに大きなギャップが生ずる。
→他者の評価は得てして数値に還元しやすさとわかりやすさ。上越の地味な山域よりも南北アルプスを評価してしまいがち。
深谷明の手記を読むといちばん最後にやった冬の日本アルプス縦断からは、いまひとつ充足感が伝わってこない(推測に過ぎないけれど)。何故そんなことをおもうのかというと自分のなかでも同じことが何度もあったから。世界地図に踏破ルートを記して何々縦断や横断、あるいは何千キロ踏破などわかりやすいほど他者は反応する。でも自分のなかでは、悪条件から距離が稼げなかったときほど印象は深い。
ユーコン河カヌー下降やオーストラリア自転車横断などよりも、蒼氷に入る前にひとりで行った雨の日の谷川岳一ノ倉沢の超かんたんなルートのフリーソロのほうが充足感は遥かにあった。ほかにも同様の山行がいくつかある。誰からも反応されない山行でも当事者にとって深い意味をもつものもあるということ。
深谷明は厳冬季に何度かトライして敗退した上越の縦走のほうが挑戦の意味が大きかったのではないか(これまた推測に過ぎないけれど)。