昨夜読んだ本。
『彼女たちの山 平成の時代、女性はどう山を登ったか』(柏澄子著)
まずオイラがかろうじて山に行っていたのは昭和の終わりの2シーズンくらい。
平成の時代の山のはなしは、雑誌かSNSくらいでしかわからない。
面識があっても挨拶くらい。
だから自分にとって平成の登山はあくまで傍観者。
かんじたこといろいろ。
昭和の登れる女性クライマーはほぼ身なりに無頓着だったけれど、平成になると身なりに無頓着な登れる女性クライマーが激減した。
昭和のころ「男についてこれない女は山に行く資格なし」と凝り固まった考えの男が、平成になると激減した。
昭和の時代は登山関連のコミュニティが閉鎖的だったけれど、平成になると風通しがよくなった。
ただ風通しがよくなった弊害として、山の世界には場違いではないかとも思われる人たちがそれなりに紛れ込んでしまった。
女性が変化したのか全体が変化したのか。
平成を読むことで昭和が見えてきた。
この本を読みながら、オイラは山の世界からすっかり遠く離れてしまったなってあらためておもった。
ちなみに昭和の時代、この表紙のようなカラフルなウェアはなかった。
昨夜、読んだ本。
『紛争地で「働く」私の生き方』(永井陽右著)
舞台は、ソマリア。
長期の紛争や大飢饉で世界でもっとも危険な場所。
仕事は、テロ(イスラム系暴力的過激主義)組織から投降を引き出し社会復帰に向けてケアしていくこと。
「お前を殺してやる」とテロ組織からの頻繁な脅迫。
遺書も準備している。
いつ死んでもおかしくない。
この本を読んでいると「いったいなぜ、そこまで。マジで、あなたの命ヤバいですよ」と喉元まで出かかる。
もちろん著者にとってはそんなの余計なおせっかいなんだろうけれど、、
さて暴力的過激主義組織が絡む紛争についての解決方法の答えはない。
学生時代よりソマリア問題に取り組みはじめるも、多くの専門家は「ソマリアだけはヤバすぎるからやめとけ」と否定的。
しかしこの著者は誰もやらないからこそ取り組む意義を見いだす。
頭でっかちの保守的なオトナに見切りをつけて、ひとりで仲間を募りはじめの一歩を踏み出す。
この著者にとって「できること」ではなく「やるべきこと」が判断基準だ。
社会問題のみならず、あらゆる分野でこれから何かをはじめようとする人にとってヒントになる言葉が散りばめられている。
受け身型のところがない。
たとえばこんなはなしがある。
数人のグループで厳しい雪山に行ったさいに、たまたまひとりの人の経験不足と不調で、当初の計画の半分にも満たないところで終った。
すると、すべての敗因をそのひとりのせいにする。
では、その経験不足のひとりがグループに加わらなかったとしたら、当初の計画は果たして成功していたのだろうか。
そのグループじたいが経験不足にもかかわらず、ひとりの人のせいにしてしまったというケースはあり得る。
このあたりは、こまかく調査・分析しないと「真実」にたどり着かない。
昨夜読んだ『八甲田山 消された真実』(伊藤薫著)は、明治35年の八甲田山雪中行軍の大量遭難を過去の資料を丹念に読み込み真実に迫ったもの。
そもそも『八甲田山死の彷徨』の著者・新田次郎は、作家であってノンフィクション・ライターではない。
歴史小説は史実に沿って創作をまじえている。
『八甲田山死の彷徨』の映画も小説もほどよく売れたおかげで、多くの人たちが勘違いするきっかけをつくってしまった。
八甲田山雪中行軍の大量遭難にかぎらずに、真実とはしばしば揉み消されてしまう宿命なのだろうか。
真の敗因はいったい何だったのだろうか。あるいは誰だったのだろうか、、
昨夜読んだ本。
『海が見える家』(はらだみずき著)
主人公は、新卒(大卒)入社→会社なんてクソだ→1か月で退社→いろいろあって→海辺の町で暮らし→サーフィンはじめる。
社会からドロップアウトしてサーフィンの世界で名を馳せるといった派手なはなしではない。
他人に誇るものなどとりたててない消極的な若者だ。
それでいて当初ぶっきらぼうだった地元のおっさんといつしか打ち解けて、日々の暮らしは静かに満たされはじめる。
初めて波に乗って海に立って陸を見ることが、ただ無性にうれしい。
しあわせって何かを完成させることでもなければモデルケースに無理やりハメ込むことでもない。
もしかしたら自分にしかはかれない世界をしあわせとよぶのだろうか。
なによりもこの本の表紙に癒される。
昨夜読んだ本。
『What’s Next? 終わりなき未踏への挑戦』(平出和也著)
二十歳そこそこで山をはじめるやいなやヒマラヤ8000メートル峰に無酸素登頂。そして山頂からスキー滑降に成功。
平出和也はもともと大学陸上部の競歩選手。のみならず幼少のころよりスキーや剣道などスポーツで活躍するアスリート。
大学の途中で陸上部から山岳部へ。
より高きより困難な山を効率良くめざすなら、山岳部以外の体育会系の部でしっかり基礎体力をつけてからのち山岳部に入部がベターなのかもしれない。
飲んで山の話をしているだけでは体力はつかない。
登りたい山がたくさんある人は、やはり効率良くやったほうがいい。
体力は有限。いずれピークをむかえてあとは落ちるだけ。
大学山岳部のあとは地図の空白部から未踏ルートをさがし出し、堰を切ったように毎年のようにヒマラヤの壁を登る。
自分の価値観に沿った山やルートをさがすには、ネットよりも紙の地図や資料ではないか。そして現地に赴く。
情報収集は手間隙惜しんだらダメ。効率良くやろうとするのはさらにダメ。
課題さがしは、一般的な受け身型の努力とは異なる。
先天的な嗅覚みたいなもの。好奇心と根気と。
誰から勧められるわけでもなく気がついたら神田の神保町の書店で資料とにらめっこしているような。
「テクニックだけをとっていえば、私以上に登れる人は日本でも世界でもたくさんいるだろう。しかし目標になる課題を見つけるセンスがなければ、そのテクニックを発揮することはできない。」(本文より)
アスリートと探検部的な要素という組み合わせが、ヒマラヤにおける一連の初登攀に繋がったのではないだろうか。
昨夜読んだ本。
『酔いどれクライマー永田東一郎物語 80年代 ある東大生の輝き』(藤原章生著)
80年代、大学山岳部は低迷していた。
一部の先鋭クライマーをのぞけば登山界に元気がなかった。
当時の大学山岳部は、登れて頭がよくて性格がよくても1年生は奴隷。まったく登れなくて頭がめっちゃ悪くて性格クソでも4年生になれば神、という体育会系的年功序列が根強く残っていた。
ガチガチ。
時代が進んでも新しい技術を導入しようという気風はない。
そうしたなかで東大スキー山岳部は、1984年にカラコルムのK7(6934m)の初登攀に成功する。
どこから眺めても急峻なこの山は、世界的にも難しい登攀。
そのときの隊長が永田東一郎、当時7年生。
なぜ東大スキー山岳部は秀でていたのか。
東大生は頭が良いから何をやってもできる。
たしかにそうだ。
でも頭が良くて岩登りが上手くてリーダーシップがある人は、学歴に関係なくいる。
K7に至るまでの活動の軌跡をみると、新しい技術を積極的に取り入れた山行を行っている。
風通しがよかったのではないか。
永田東一郎は、頭の中のアイデアを形にすることに長けていた。
先鋭クライマーならしばしばやっている膨大な資料の読みこみを苦にしない。
当時の大学山岳部としては和気藹々。
これらの要素がうまく噛み合って、計画段階で周囲からの「まあ登れんやろ」を成功へと覆した。
さて本業(?)の東大工学部建築学科を8年で卒業。
登山はスパッとやめて、つぎなる建築の世界でも開花してゆくのか。
頭の中のアイデアを形にするが得意なら、建築こそ我が世界。
ところがそうはうまくいかなかった。
建築事務所を何度か転職した挙げ句、離婚、酒の飲み過ぎで身体を壊して入院、、
斬新なスタイルでの登攀成功と実社会でうまくいかないは裏表一帯。
昭和の登れるクライマーあるある。
永田東一郎は、子どものころから一貫してやんちゃ。
組織も社会も「斬新なアイデア求む」や「失敗を恐れるな」なんていいながら、「不可能視されるからこそやってみる」や「誰もやらないからこそやってみよう」にはいつも臆病だ。
もし仮に永田東一郎が会社で順調に出世して円満な家庭を築けるような人だったとしたら、おそらくK7のような知名度は低いけれど難しい玄人好みの山には目をつけなかったのではないだろうか。