書評を書いた。
『ヤマケイ文庫 登山史の森へ』(遠藤甲太著)
書かれていることだけがすべてではない。
多くの人は、活字にしないと反応しない。
多くの人は、活字にしたとたん鵜呑みにする。
たいせつな記憶って、言葉にしたとたん色褪せてしまう。
あの世まで持っていきたい思い出がある。
眠っている(埋もれている)記録、あってもいい。
山の思い出、すべてを語らなくってもいい。
以上、書評を書きながらメモしたこと。
この本は、一般的な登山者には馴染みのうすい登山(登攀)記録を掘り出して、ときにユーモアをまじえて解説したもの。
先週、読んだ本。
『北海道犬旅サバイバル』(服部文祥著)
アスリートはたいていなんらかの身体的な故障をかかえている。
登山はほかのスポーツにくらべるとまだゆるい。
それでも40歳過ぎれば故障とも仲良く付き合っていかざるを得ない。
この本の著者であるサバイバル登山家は、50歳を前に激しいヒザの痛みに襲われ、引退という二文字がちらつく。
ならば体力が落ちきる前に、それまでの集大成としてこの山旅を企画する。
北海道を宗谷岬から襟裳岬へ。天塩山地、大雪山系、日高山脈と分水嶺に沿ってひたすら歩く。
2019年10月から11月、期間2か月間。
踏破距離700キロ(地図上の計算だと700キロだけれど実質は1000キロくらいか)。
現金もクレジットカードもなし、という新しいスタイル。ついでにバイトもなし。
(これまでほかの旅人が北海道で無銭旅行したはなしは聞くけれど、宿や漁を手伝ったり食糧が手に入るのが前提の旅だった)
愛する犬を連れて。
銃を担いでシカを撃ち食糧にしながら。
(途中3か所の山小屋に米をデポ)
この著者は旅を終えたら体力的な限界を受け入れて引退するのか、それとも、、
「今できる、今しかできない登山をちゃんとやっておくべきだ」(本文より)
ダメだとおもったその時点から、この著者の山旅ははじまる。
このところ身体的な故障で1日に10回くらい「何のために生きてるんやろ」って考えるオイラにとって、たいへん興味深かい本だった。
先週、読んだ本。
『登山史の森へ』(遠藤甲太著)
ほんとうに価値ある登攀や山行って、当事者が多くを語らなくとも、なぜかどこからともなく話題になる。
誰かがいろいろな資料や目撃者の証言と照合して真偽のほどをたしかめ、やがて活字として残される。
そんな山の記録発掘調査の一連の作業を綴ったのがこの本。
この作業は体系的な暗記よりも、先天的な嗅覚がものをいうのではないか。
見えているものだけがすべてではない。
書きたいこといろいろあるけれど、諸事情あってここまで。
昨夜読んだ本。
『彼女たちの山 平成の時代、女性はどう山を登ったか』(柏澄子著)
まずオイラがかろうじて山に行っていたのは昭和の終わりの2シーズンくらい。
平成の時代の山のはなしは、雑誌かSNSくらいでしかわからない。
面識があっても挨拶くらい。
だから自分にとって平成の登山はあくまで傍観者。
かんじたこといろいろ。
昭和の登れる女性クライマーはほぼ身なりに無頓着だったけれど、平成になると身なりに無頓着な登れる女性クライマーが激減した。
昭和のころ「男についてこれない女は山に行く資格なし」と凝り固まった考えの男が、平成になると激減した。
昭和の時代は登山関連のコミュニティが閉鎖的だったけれど、平成になると風通しがよくなった。
ただ風通しがよくなった弊害として、山の世界には場違いではないかとも思われる人たちがそれなりに紛れ込んでしまった。
女性が変化したのか全体が変化したのか。
平成を読むことで昭和が見えてきた。
この本を読みながら、オイラは山の世界からすっかり遠く離れてしまったなってあらためておもった。
ちなみに昭和の時代、この表紙のようなカラフルなウェアはなかった。
昨夜、読んだ本。
『紛争地で「働く」私の生き方』(永井陽右著)
舞台は、ソマリア。
長期の紛争や大飢饉で世界でもっとも危険な場所。
仕事は、テロ(イスラム系暴力的過激主義)組織から投降を引き出し社会復帰に向けてケアしていくこと。
「お前を殺してやる」とテロ組織からの頻繁な脅迫。
遺書も準備している。
いつ死んでもおかしくない。
この本を読んでいると「いったいなぜ、そこまで。マジで、あなたの命ヤバいですよ」と喉元まで出かかる。
もちろん著者にとってはそんなの余計なおせっかいなんだろうけれど、、
さて暴力的過激主義組織が絡む紛争についての解決方法の答えはない。
学生時代よりソマリア問題に取り組みはじめるも、多くの専門家は「ソマリアだけはヤバすぎるからやめとけ」と否定的。
しかしこの著者は誰もやらないからこそ取り組む意義を見いだす。
頭でっかちの保守的なオトナに見切りをつけて、ひとりで仲間を募りはじめの一歩を踏み出す。
この著者にとって「できること」ではなく「やるべきこと」が判断基準だ。
社会問題のみならず、あらゆる分野でこれから何かをはじめようとする人にとってヒントになる言葉が散りばめられている。
受け身型のところがない。
たとえばこんなはなしがある。
数人のグループで厳しい雪山に行ったさいに、たまたまひとりの人の経験不足と不調で、当初の計画の半分にも満たないところで終った。
すると、すべての敗因をそのひとりのせいにする。
では、その経験不足のひとりがグループに加わらなかったとしたら、当初の計画は果たして成功していたのだろうか。
そのグループじたいが経験不足にもかかわらず、ひとりの人のせいにしてしまったというケースはあり得る。
このあたりは、こまかく調査・分析しないと「真実」にたどり着かない。
昨夜読んだ『八甲田山 消された真実』(伊藤薫著)は、明治35年の八甲田山雪中行軍の大量遭難を過去の資料を丹念に読み込み真実に迫ったもの。
そもそも『八甲田山死の彷徨』の著者・新田次郎は、作家であってノンフィクション・ライターではない。
歴史小説は史実に沿って創作をまじえている。
『八甲田山死の彷徨』の映画も小説もほどよく売れたおかげで、多くの人たちが勘違いするきっかけをつくってしまった。
八甲田山雪中行軍の大量遭難にかぎらずに、真実とはしばしば揉み消されてしまう宿命なのだろうか。
真の敗因はいったい何だったのだろうか。あるいは誰だったのだろうか、、