昨夜読んだ本。
『酔いどれクライマー永田東一郎物語 80年代 ある東大生の輝き』(藤原章生著)
80年代、大学山岳部は低迷していた。
一部の先鋭クライマーをのぞけば登山界に元気がなかった。
当時の大学山岳部は、登れて頭がよくて性格がよくても1年生は奴隷。まったく登れなくて頭がめっちゃ悪くて性格クソでも4年生になれば神、という体育会系的年功序列が根強く残っていた。
ガチガチ。
時代が進んでも新しい技術を導入しようという気風はない。
そうしたなかで東大スキー山岳部は、1984年にカラコルムのK7(6934m)の初登攀に成功する。
どこから眺めても急峻なこの山は、世界的にも難しい登攀。
そのときの隊長が永田東一郎、当時7年生。
なぜ東大スキー山岳部は秀でていたのか。
東大生は頭が良いから何をやってもできる。
たしかにそうだ。
でも頭が良くて岩登りが上手くてリーダーシップがある人は、学歴に関係なくいる。
K7に至るまでの活動の軌跡をみると、新しい技術を積極的に取り入れた山行を行っている。
風通しがよかったのではないか。
永田東一郎は、頭の中のアイデアを形にすることに長けていた。
先鋭クライマーならしばしばやっている膨大な資料の読みこみを苦にしない。
当時の大学山岳部としては和気藹々。
これらの要素がうまく噛み合って、計画段階で周囲からの「まあ登れんやろ」を成功へと覆した。
さて本業(?)の東大工学部建築学科を8年で卒業。
登山はスパッとやめて、つぎなる建築の世界でも開花してゆくのか。
頭の中のアイデアを形にするが得意なら、建築こそ我が世界。
ところがそうはうまくいかなかった。
建築事務所を何度か転職した挙げ句、離婚、酒の飲み過ぎで身体を壊して入院、、
斬新なスタイルでの登攀成功と実社会でうまくいかないは裏表一帯。
昭和の登れるクライマーあるある。
永田東一郎は、子どものころから一貫してやんちゃ。
組織も社会も「斬新なアイデア求む」や「失敗を恐れるな」なんていいながら、「不可能視されるからこそやってみる」や「誰もやらないからこそやってみよう」にはいつも臆病だ。
もし仮に永田東一郎が会社で順調に出世して円満な家庭を築けるような人だったとしたら、おそらくK7のような知名度は低いけれど難しい玄人好みの山には目をつけなかったのではないだろうか。
昨夜読んだ本。
『人生上等! 未来なら変えられる』(北尾トロ著)
ヤンキー→女暴走族リーダー→ヤクの売人→2度の刑務所→起業して女社長。
刑務所に求人を出し出所者を雇用。
反社で活動から一転して社会で活動というサクセスストーリー。
ジェットコースターのような人生にも見えるけれど、ニンゲンそのものは一貫しているように見える。
暴走族とはいえひとつの組織であり集団行動。そしてエネルギーの塊。
リーダーともなれば人をまとめて動かすという才覚が求められる。
良いか悪いかを差し引けば、社会そのもの組織そのもの。
ヤクの売人はもちろん悪いことどころか犯罪だけれど、人脈を築き良い商品を仕入れてより多く売れるのは営業力。
反社でないふつうの会社だって、陰ではいかにして顧客を騙すかなんて堂々といっている。
くどいようだけれど良いか悪いかを差し引けば、それなりの実行力だ。
反社が社会に迷惑なのはまぎれもない事実だし撲滅すべきだけれど。
社会で活動するのと反社で活動するのとが紙一重に思えてくる。
目的が何であれ、自分をだいじにしてくれて(だいじにしてくれるように見えて)、面倒見の良い(良く見える)人に人は集まってくる。
今週読んだ本。
『天路の旅人』(沢木耕太郎著)
戦中戦後にかけて8年間、内モンゴル~青海省~チベット~インドを密偵と巡礼をした西川一三を追ったルポ。
自由な人だなぁ、って思った。
密偵や巡礼が、ではない。
日本に帰国して数年かけて『秘境西域八年の潜行』を書き終えると、いつまでも「チベットの西川です」などと引きずらず、あとは晩年まで東北の盛岡で化粧品店の店主としてコツコツと働くという道をたどる。
自由とはフリーランスやアウトローや流浪の旅人になるだけではない。
必要以上に過去の業績にとらわれることなく、どの方向にもすすめることこそが自由だともいえる。
この本を読むとわかるけれど、この主人公の西川一三は表舞台よりもむしろ地味に暮らすほうが居心地が良かったのではないだろうか。
せっかくあれだけのことを成し遂げたのだからもっと社会に還元したいもっと有名にならないともったいない、といった欲はときに枷(かせ)にもなり得る。
『八甲田山死の彷徨』についておもう。
ガチガチなくせにいざとなると使い物にならない(判断を誤る)上官のおかげで、無駄死を強いられたといえなくもない。
上官とは現場にはいなかったけれど直属の上司もふくめて。
このはなしは、冬の八甲田山という場所にもかぎらないし軍隊という組織にもかぎらない。そして明治という時代にもかぎらない。
もしかしたらいまもどこかでおなじことが起きているかもしれない。
風雪の津軽のテントのなかで読んだ本。
『春に散る 』(沢木耕太郎著)
ボクシングには縁がないどころか、ボクシングをテーマにした本を手にするのもはじめて。
それでも上下巻900頁余を一気に読んだ。
ストイックなボクサーの生きざまを描いた小説。
試合で殴られまくり、失明の危惧にさらされながらも、前へ前へ。
いったいなぜ、そこまで。
光を失う恐怖はないのか。
そもそも何をめざしているのだろう。
世界チャンピオン獲得といった名声ではなく、内面的な世界を模索しているのか。
でも、見えなくなってもいいんです。この眼は、あの試合で、見たいものを見ましたから。
もしかしたら何かを失ってみじめに見えるようでいて、じつは何かを獲得して静かに満たされているのかもしれない。
完全燃焼という言葉は、すがすがしい。そして、おそろしくもある。
今回の津軽は終始体調がよくなくて、一週間ほとんど動けないまま終る。
でも行ってよかった。
悪天候のなか、そのときそこに居ないと見えない光景に出会えたから。