きのう読んだ本。
『アラスカ物語』 (新田次郎著)
(いまさらやっと(笑))
本の内容は、有名なので略。
まずは自分の話から。
30年以上前、夏のアラスカのユーコン河を1カ月かけてカヌーで旅をした。
楽しい日々だったけれど、物足りない日々だった。
最後にのこされた辺境の地というキャッチコピーで、それなりのドイツ人や日本人が訪れていた。
こんなの冒険でもなんでもないじゃん。
浮世離れした桃源郷を求めていたわけではなかったけれど、旅の思い出として残る場所ではなかった。
ところがこの『アラスカ物語』を読んで、夏のユーコン河の印象が一気に変わる。
明治時代の話だけれど、どんな場所にも歴史がある。そこには人の喜怒哀楽もある。
自分のなかでかつてつまらない場所だった夏のユーコン河が、この本によって急に意味の深い場所になった。
なんでもかんでも、すぐに消化しなくてもいいのかもしれない。いまわからなくても、やがてわかるときがくるのかもしれない。
【深谷明をなぜ選んだのか】
まず深谷明は今シリーズの他の人たちのように黒部横断30回、厳冬の沢登り、大学9年、千日回峰といった強烈さがない。海外の記録もなければ初登攀もない。では、ほかの人たちとどうちがうのか。以下のようにまとめてみた。
◇
二十一世紀にはいると長期・長距離縦走において斬新な記録はほとんどなくなった。このころ台頭してきた長距離の山岳レースの上位者は、山屋ではなく競技選手で占められる。夏は1日1アルプス、残雪季は立山〜上高地をワンデイ。
そうしたなかで目についたのが、深谷明の冬の連続縦走。2011年1月から3月にかけて歩いた、太平洋〜南アルプス主稜線〜八ヶ岳主稜線〜北アルプス主稜線〜日本海。距離およそ500km。街での休養は3、4日足らず。準備をふくめたら休養なしだ。2009年の冬は、奥羽山脈を26日間歩いた後3日間はさみ、南アルプス南部を13日間縦走。さらに下山して1週間後には、北アルプスに24日間入山している。果たして疲労が回復するのだろうか、あるいは志気は持続できるのか、といった疑問がわいてきた。
1975年3月から4月にかけて日高山脈全山縦走を行った細貝栄と工藤英一は、下山後に利尻島の登攀を計画していたが体力、志気の低下で中止している。また自分でも連続縦走を試みたことがある。冬のカナディアン・ロッキーを1カ月縦走したあと、1週間の休養をはさみセルカーク(カナディアン・ロッキーの西隣)山脈で2週間の縦走を計画した。でも下山後、身体はガリガリになり咳が止まらず、連続縦走は中止した(いちおう縦走最終日は山中でテント、シュラフ、ウエアをかんぜんに乾かす。下山した翌日の午前中にはバンフの街の高尾山クラスの山に登り、午後から図書館で調べものしたが、夕方から疲れがドッと出て完全に終った、、)。
冬の連続縦走が体力的にもモチベーション維持でも、いかに困難か。じっさいに試みた人があまりいないから、深谷明のスゴさを検証できる人もすくない。前々回の溝江朝臣の冬季の徒渉のように。何時間、何kg、何km、何°Cといった数値にはあらわれない難度がある。
もしかしたら深谷明は自身の長所に気づいていないのではないか。短所とちがって長所は自分もまわりも気づきにくい。1カ月ちかく冬山を歩いても、体力も志気も極端に低下しない。とはどこにも書いてないが、すぐにまた長期・長距離の縦走に出かけるのだからそういうことだろう。溝江朝臣も年間を通じて頻繁に山に入るが、それでも大きな山行を終えるとつぎの山行まで1カ月は空けている。
いずれにしても冬の連続の長期縦走は、ざっと調べたかぎりこれまでに例がない。二十一世紀になってはじめての記録ではあるまいか。気合で歩けるだろ、と飲んだ席で語る傍観者はいるけれど、実際にやった人は深谷明のほかにはいない。
◇
1、輝かしい長期縦走をはじめる(二十代前半)までがさらっとしか語られていない。
→あえて語るべきことがなかった期間が長いほど、その後により大がかりな計画の実践へと昇華されるのではないか。最近読んだほぼ同年代(深谷明とおなじ1972年生まれ)の別の人の手記を読んでもおなじことを感じた。自分にもあてはまる。ある写真家の言葉で、「雨音を聞きながら悶々と過ごす時間が納得のゆくシャッターチャンスをつくりだす」
2、他者が評価する山行と当事者が充足する山行とのあいだに、ときに大きなギャップが生ずる。
→他者の評価は得てして数値に還元しやすさとわかりやすさ。上越の地味な山域よりも南北アルプスを評価してしまいがち。
深谷明の手記を読むといちばん最後にやった冬の日本アルプス縦断からは、いまひとつ充足感が伝わってこない(推測に過ぎないけれど)。何故そんなことをおもうのかというと自分のなかでも同じことが何度もあったから。世界地図に踏破ルートを記して何々縦断や横断、あるいは何千キロ踏破などわかりやすいほど他者は反応する。でも自分のなかでは、悪条件から距離が稼げなかったときほど印象は深い。
ユーコン河カヌー下降やオーストラリア自転車横断などよりも、蒼氷に入る前にひとりで行った雨の日の谷川岳一ノ倉沢の超かんたんなルートのフリーソロのほうが充足感は遥かにあった。ほかにも同様の山行がいくつかある。誰からも反応されない山行でも当事者にとって深い意味をもつものもあるということ。
深谷明は厳冬季に何度かトライして敗退した上越の縦走のほうが挑戦の意味が大きかったのではないか(これまた推測に過ぎないけれど)。
昨夜のThe Tribeでのトークイベント「長期間&長距離 登山家列伝 第6回目 クルマやバイクの旅から冬の長期縦走へ 深谷明」だよ。
深谷明は、今回のシリーズのほかの人たちのようにピンとくるようなタイトルがつけられない。海外の記録もなければ岩壁の初登攀もない。
しかし長期縦走における体力とモチベーションの持続力が群れを抜いている。
数値で表現しきれない登山のなかに、ひとつの価値を見いだす作業は、やはりおもしろい。
ほかの人たちが見過ごしてしまいそうだからこそ自分がとりあげる。
台風の影響で大雨だったり交通機関の乱れがあったにもかかわらずそれなりに来てくれた。ありがとうございます。
【深谷明(ふかや あきら)|1972年(昭和47年)生まれ、埼玉県生まれ】
大学時代クルマによる旅をはじめる。卒業後バイクや徒歩で日本一周。そのとき立ち寄った屋久島で登山に開眼。以来、積雪季の長期縦走にハマる。
2005年3月(30日間)、奈良俣ダム~越後駒ガ岳~浅草岳~粟ガ岳。2008年1月~2月(39日間)、南アルプス・大無間山~光岳~塩見岳〜仙丈ヶ岳~甲斐駒ガ岳~鳳凰三山~北岳~農鳥岳~笊ガ岳。2009年1月(26日間)、奥羽山脈北部・真昼岳~和賀岳~秋田駒ガ岳~安比高原。2月~3月(24日間)、北アルプス・上高地~霞沢岳~燕岳~唐沢岳~烏帽子岳~黒部五郎岳~薬師岳~立山~剱沢~仙人ダム~五竜岳。
2011年1月~3月(68日間)、日本アルプス縦断・太平洋~八紘嶺~畑薙第一ダム~聖岳~悪沢岳~塩見岳~北岳~甲斐駒ガ岳~小淵沢~権現岳~赤岳~蓼科山~松本~蝶ガ岳~槍ガ岳~双六岳~赤牛岳~五色ガ原~立山~剱沢~欅平~白馬岳~日本海。
山岳会には属しているが主な長期縦走はもっぱら単独行。山では連日棒ラーメン。下界でも食に変化を求めず、単調かつ質素。
昨夜読んだ本。
『サハラてくてく記 リヤカーマン=アフリカ大陸横断11,000キロ』(永瀬忠志著)
(十年以上ぶりに再読)
食料、燃料、水、キャンプ用具一式を満載したリヤカーを引いて1年かけて、アフリカ中央部〜サハラ砂漠を歩いた記録。
(永瀬さんの数々の歩き旅の偉業はネットで調べればいくらでもでてくるので略)
大荷物を持った長期の歩き旅は、体力的にほぼ三十代がピーク。
でも永瀬さんは、若いときにくらべるとスケールこそ縮小しているけれど、70歳になるいまも歩き旅をつづけている。
波長の合う対象に出会えた人は、体力のピークを過ぎても楽しめる。
昨夜、読んだ本。
『無一文「人力」世界一周の旅』(岩崎圭一著)
(旅の詳細は、ネットでいくらでも見れるし最近クレイジージャーニーにも出演したので略)
この著者は、30歳を前に「このままでは人生があっという間に終わってしまう」と旅に出る。いらい25年間無帰国で、50歳を過ぎたいまも旅の途上。
おもったこと以下。
・パッとしなかった時間こそが、その後の充足する時間をつくりだしてゆく。
→ほどよく満たされてしまったら、飛翔するきっかけは生まれない。
・何かを成し遂げるさいにものをいうのは、こまかな技術や知識よりも実行力。
→こまかな技術も知識も、かえって小さくまとまってしまう。正論をならべてゆくと、机上で人生が終わる。
・何かを成し遂げたいと切望しつつ、できる人とできない人がいる。
→できなかった人のほうが、社会に適応していたりする。できてしまった人のほうが、夢の実現という魔物によってときにがんじがらめになっていたりする。
昨夜のThe Tribeでのトークイベント「長期間&長距離 登山家列伝 第5回目 風狂を尽くして 早稲田大学山岳部9年生、竹中昇」だよ。
今回のシリーズで竹中昇が、もっともなじみがうすいかもしれない。これまでの人たち――細貝栄、溝江朝臣、和田城志――は、山岳雑誌にインタビュー記事がある。大きな顔写真とプロのライターの文章があるかないかで、印象がちがってくる。竹中昇の雑誌の登場はない。
より厳しいルートから冬の剱岳・黒部を登るためのステップとしてヒマラヤ7000m峰に登るという発想、おもしろいじゃないか。
(かつては日本の山はヒマラヤのためのトレーニングという考え方が色濃かった)
精力的に難度の高い活動をしていても、自己顕示欲に乏しいと名前が出にくい。
誰かがとりあげないと、いつのまにかいなかったことになってしまう。
【竹中昇(たけなか のぼる)|1952年(昭和27年)、兵庫県豊岡市生まれ】
中学校から山岳部、高1で国体に出場。浪人時代のひと夏を三俣山荘で過ごし、黒部の山賊との出会いが、のちの土着の山登りに影響をあたえる。早稲田大学山岳部4年のおわりころより少人数での独創的な登山をはじめる。
76年3月、黒部別山第1尾根〜剱岳・八ツ峰1峰3稜。77年3月、鹿島槍ガ岳〜赤沢岳北西尾根〜黒部別山南尾根〜剱岳・八ツ峰1峰3稜。77年12月〜78年1月、親不知〜西穂高岳。79年3月、鹿島槍ガ岳〜赤沢岳西尾根〜黒部別山第1尾根〜剱岳・八ツ峰1峰3稜〜北方稜線下降。
76年、ドゥナギリ(7066m)北面(初登)。78年、グール・ラシュト・ゾム(6650m)東壁(初登)。79年、シックル・ムーン(6574m)南東稜(初登)、ブラマー1峰(6416m)南東稜。80年、バトゥラ1峰(7786m)南稜(7500mまで)。
80年〜81年、植村直己率いる冬季エベレスト登山中に滑落死亡。享年28。
81年3月、早稲田大学教育学部教育学科卒業。『竹中昇遺稿追悼集 風狂を尽して』(85年発行)。「日本山岳会学生部年報」や「山岳」の編集にも携わる。コーヒーと煙草が好き。