国分寺「びぃだま」トークイベントのお知らせ。
中学生のとき丹沢や南アルプスをひとりで歩いていた。
いまみたいに山の景色の記憶は皆無。
山でいちばんの楽しみは、ほかの登山者から山の話を聞くことだった。
まだ丹沢しか知らなかった自分にとって、どんな山の話も新鮮だった。
山の難度という概念すらなかったあのころ。
山も人も純粋に輝いていた。
書評を書いた。
『ヤマケイ文庫 登山史の森へ』(遠藤甲太著)
書かれていることだけがすべてではない。
多くの人は、活字にしないと反応しない。
多くの人は、活字にしたとたん鵜呑みにする。
たいせつな記憶って、言葉にしたとたん色褪せてしまう。
あの世まで持っていきたい思い出がある。
眠っている(埋もれている)記録、あってもいい。
山の思い出、すべてを語らなくってもいい。
以上、書評を書きながらメモしたこと。
この本は、一般的な登山者には馴染みのうすい登山(登攀)記録を掘り出して、ときにユーモアをまじえて解説したもの。
・台風直撃や猛吹雪だと行きたくなりますよね。
・サンダルにかぎりますよね。
・承認欲求より自己実現ですよね。
なぜしてくくりたがるんやろ。
幅広い選択肢があっていい。
むかしといまと、いっとることがちがってもいい。
自分の山って誰かにくくられてしまったとたん、色褪せてしまう。
先週、読んだ本。
『北海道犬旅サバイバル』(服部文祥著)
アスリートはたいていなんらかの身体的な故障をかかえている。
登山はほかのスポーツにくらべるとまだゆるい。
それでも40歳過ぎれば故障とも仲良く付き合っていかざるを得ない。
この本の著者であるサバイバル登山家は、50歳を前に激しいヒザの痛みに襲われ、引退という二文字がちらつく。
ならば体力が落ちきる前に、それまでの集大成としてこの山旅を企画する。
北海道を宗谷岬から襟裳岬へ。天塩山地、大雪山系、日高山脈と分水嶺に沿ってひたすら歩く。
2019年10月から11月、期間2か月間。
踏破距離700キロ(地図上の計算だと700キロだけれど実質は1000キロくらいか)。
現金もクレジットカードもなし、という新しいスタイル。ついでにバイトもなし。
(これまでほかの旅人が北海道で無銭旅行したはなしは聞くけれど、宿や漁を手伝ったり食糧が手に入るのが前提の旅だった)
愛する犬を連れて。
銃を担いでシカを撃ち食糧にしながら。
(途中3か所の山小屋に米をデポ)
この著者は旅を終えたら体力的な限界を受け入れて引退するのか、それとも、、
「今できる、今しかできない登山をちゃんとやっておくべきだ」(本文より)
ダメだとおもったその時点から、この著者の山旅ははじまる。
このところ身体的な故障で1日に10回くらい「何のために生きてるんやろ」って考えるオイラにとって、たいへん興味深かい本だった。
先週、読んだ本。
『登山史の森へ』(遠藤甲太著)
ほんとうに価値ある登攀や山行って、当事者が多くを語らなくとも、なぜかどこからともなく話題になる。
誰かがいろいろな資料や目撃者の証言と照合して真偽のほどをたしかめ、やがて活字として残される。
そんな山の記録発掘調査の一連の作業を綴ったのがこの本。
この作業は体系的な暗記よりも、先天的な嗅覚がものをいうのではないか。
見えているものだけがすべてではない。
書きたいこといろいろあるけれど、諸事情あってここまで。