2016.3.12 10:41 [
冒険 山 津軽]
津軽の山の頂に、4日間で2つ立ってきた。
(冬の時季はあれだけ時間費やしながらほぼ毎回敗退)
もうかんぜんに春の雪質。
厳冬のうんざりするようなラッセルもいまはない。
後半はホワイトアウトで視界こそなかったけれど、雪質の良さのおかげで夏よりも遥かに速いスピードで走るように登って降りてくることができた。
今回は絶妙のタイミングに行ったこともあるけど、冬のあいだあれだけ苦しめられた息もできないほどの烈風もなかった。
コンディションがよかったというよりも、厳しい冬の時季はもう終わったというかんじだな。
何事もスムーズに進みすぎるとあっけない。
やった気がしないとも、味気ないともいえる。
厳冬の津軽に通いつめているうちに、あの独特の重苦しい冬の空気がスパイスのような効き目にすら感じるようになってしまったみたいだ。
平和すぎる街に降りてきて、はやくも手応えのあるつぎなる計画を模索しはじめている。
厳冬の津軽通いは、もうしばらくはつづきそうだ。
旅先の土地の人たちとの交流についてもよく訊かれる。
日ごろから愛想などという表情とはほど遠いほうだ。
たいていの人とは目も合せないのに、いったいどのようなタイミングで人と知り合っていくのか、ともよく訊かれる。
結論から言うと、自分から話しかけることはきわめてすくない。
自分のやっていることを説明するには、日本語でもかなり骨が折れる。
それでも旅行者の少ないエリアでは、めずらしがられるのか頻繁に土地の人から話しかけられる。
誰かに話しかけられても、ぶっきらぼうに突き放すようにしか答えない。
当然相手も怪訝そうな表情になるが、そうしたなかでただひとつ好印象をもたれる会話のやりとりがある。
「ところでどうしてこんなマイナーな場所を旅しているんだ? そもそもどうしてこんな場所を知ってるんだ?」
「まず雄大な自然に魅かれてカナダを選んだんだよ。そのなかでもこのエリアは、手つかずの自然が残されていてたいへん気に入っている。ここで眺める夕日はサイコーだ。もう3冬も訪れているよ」
その土地の魅力を褒めると、ほぼまちがいなくその土地の人はよろこんでくれる。
ぶっきらぼうだった会話が、いつしか大歓迎になってしまったりする。
「寒いからウチにコーヒーでも飲みにこないか? 夕食を食べにこないか?」
それからはもう芋ずる式に知り合いを紹介されてゆく。
あとで知ったことだが、一般的にマイナーなエリアほどその土地を褒めるとひじょうによろこんでもらえるようだ。
山や冒険における行動パターンは、ネコのように気まぐれだとか無計画だとかよくいわれる。
沢木耕太郎の『深夜特急』じゃないけれど、朝目が覚めたときにその日の行動をきめているからだろうか。
自然界ではしばしば想定外のことが起きる。
しょせん人間の力など、自然界の力にはおよばない。
人間が机上でつくりあげた計画を、自然界の摂理に押し込もうとすることにむりがある。
明日のことなど、わかるところまでしかわからない。
計画に従順になるよりもなんとなく行きたくない行きたい、といった自身の内なる声に耳をかたむけている。
臨機応変ともネコのような気まぐれともいえる。
のんびりしているとも待機しているとも。
もしかしたら山や冒険で生き残った人と生き延びられなかった人との境は、そのあたりにあるのだろうか。
厳しい状況のなかで、かならずしも強い者ばかりが生き残るとはかぎらない。
時と場合によっては、もしかしたら弱い者のほうが有利になるのかもしれない。
攻めの強さは、裏を返せば防御の弱さ。
弱さが長所になることもある。
逆に強さがウィークポイントになってしまうこともある。
*
風雪、ホワイトアウトの津軽の山のなかでそんなことを思った。
山は逃げない。
そうよくいわれるけれど、じっさいはそうではない。
たしかに山は逃げないけれど、情熱というものはやがて冷める。
情熱とは旬みたいなもので、その時を逃すと必然的にチャンスも遠ざかる。
結局、山は逃げてゆく。
山にかぎったことではなく、あらゆるチャンスはそういうものだろう。
一生のうちでチャンスが1度きりというわけでもないが、チャンスはそう多くやってくるものでもない。
*
この写真は2001年冬のカナダのセルカーク山脈の偵察時に撮った。
写真を撮った1時間後にクレバスを踏み抜き、この山がすっかり怖くなってしまい、本番として予定していたセルカーク山脈の縦走は中止した。
そのとき以来、この山には1度も訪れていない。
おそらくもう冬のセルカーク山脈の縦走を試みることはないだろう。
たった1度のわずかな失敗で、チャンスはあっけなく崩れ去ったりするものだ。
しかし、ひとつの可能性を「切り捨てた」ときから次なる可能性がはじまるともいえる。
セルカーク山脈でクレバスを踏み抜いた翌冬に、カナディアン・ロッキーを4カ月費やして1200キロ縦走した。
1つがうまくいかなくても、次をめざせばそれでいいのだと思う。
旅の資金についてよく訊かれる。
基本的に最低限の装備提供をのぞけば、資金面におけるスポンサーとの関係は皆無。
資金支援のための活動は、あえてやっていないといったほうがいいのかな。
一度だけ資金支援を受けたことがある。
そのことが原因かどうかわからないけど、おそろしいほど行動に集中できず、旅そのものもなんだかおもしろくなかった。
以来すべて自費。
といっても自分が訪れるところは飛行機のチャーターもなければ許可料も発生しない。
たぶん皆がおもっているよりもかなり安くあげているとおもう。
たとえば数年前の冬にカナダ中央平原を3カ月間旅したときは、日本からの飛行機代こみ現地の宿泊や食料すべて合わせて30万円ほどだった。
だいたいいつもそのくらい。
もともと山も旅も高校生のころからはじめていて、資金などほとんどゼロに近かったけど、それでもいつもなんとかなっちゃったから。
そんな経験があるからだろうか、資金がなければないなりにその範囲内で楽しめる。
最近では資金も装備も少ないほど貧弱なほど、あれこれ試行錯誤してそれ自体もおもしろいんじゃないかなと思えるようになった。
そんなかんじのノリで旅をつづけている。
*
すこし補足する。
ここでは冒険のための資金支援の是非をいってるんじゃない。
場所によっては気合い入れて切り詰めて切り詰めたところで、どう考えても個人で資金を捻出できないケースだってある。
あくまでも、いま手に入るものでもじゅうぶんになんとかなるというはなしだ。