2016.10.21 09:33 [
山 戯言 旅]



9月下旬から10月上旬の半月ちかく、東北の山をまわってきた。
思ったよりも歩けたかな。
危惧していたほどヒザも腰も悪化しなかった。
傍から見たらどうでもいいような身体のわずかな変化に一喜一憂しているだけかもしれないけれど、故障持ちにとって体調がさして悪くないのはやはりそれなりに嬉しい。
さて東北の山は山そのものももちろん良いけれど、地味だけれど落ち着きのある山麓をふくめて山をとりまくぜんたいが魅力的に感じる。
何度訪れても良いところだなぁ。

おなじ場所にいても、人によって目に入ってくるものってちがう。
自分の場合、十代から二十代前半にかけては、山に行っても岩壁しか見えなかった。
そこに行くまでの途中の景色も山頂からの眺めも、いっさい記憶にない。
二十代半ばからしばらく二十年以上は、山からかんぜんに離れた。
ふり返ることもなかった。
ここ数年は、山に行くとこれまで気づかなかったいろいろな自然の変化が目にとまるようになってきた。
また何年かしたら、きっと変わるだろう。
そのとき目にとまったものには一歩近づいてみる。
目に入らなかったものは無理してさがさない。
まわりで話題になっているとかメディアが勧めているとかではなく、そのときそのときで自分が目にとまったものを眺めていけばいい。
そのときその人の目に入ったものが、その人が求めているもの。
2016.3.27 08:48 [
冒険 山 戯言]
登山も冒険も旅も、もっと自由にやればいいのになぁ。
このところよくそんなふうに思う。
たとえばだけど、いざというときの後ろ盾となる無線機やら衛星携帯やらGPSやらを持って行くことが、フェアであるとかフェアでないとか。
サポートやデポは、良いだのわるいだの。
あれダメこれダメこれもダメ、、、
自由を求めて登山や冒険や旅に出かけているはずが、これじゃあはっきりいって本末転倒だね。
ちなみに自分の場合、国内においてはスマホは持って行く。
理由は、ネット依存症だからだ(笑)
それと無線機やGPSは持って行かない。
理由は、なんとなくうざったいから。
持っていきたければ持っていけばいい。要らないとおもえば置いていけばいい。
堅苦しい理屈なんかよりも感覚的にきめている。
冒険論云々はもちろんたいせつだけど、自分がやりたいテーマを自分の好きなスタイルでやることのほうがもっとたいせつなんじゃないのかな。
規制というのはやはりわずらわしい、純粋に山や自然と対峙したい。


自転車旅は果たして冒険といえるのか?
最近そうよく訊かれる。
おそらくさまざまな意見が飛び交うだろう。
でもまず自転車旅以前に、冒険の定義を定めないと話は進展しない。
そもそも冒険の定義そのものが曖昧模糊としている。
リスクをおかすこと、主体性があること、危険であること、などなど冒険を成す要素は多種多様すぎる。
個人個人によっても捉え方はあまりにも幅がありすぎる。
同じ行為であっても各々の経験値によっても大きくちがってくる。
ある人にとってはルンルン気分のお散歩であっても別の人にとっては清水寺の舞台から飛び降りる覚悟だったりする。
だって頭のぶっ飛んだ先鋭クライマーにとっては、落ちたら確実に死ぬようなフリーソロ(ロープを結ばずにクライミング)でなければ冒険にはならなかったりする。
いっぽうで3歳くらいのお子さまにとっては、もしかしたらはじめてのおつかいだってじゅうぶんにリスクがあるともいえよう。
もしかしたら戦場カメラマンにとっては、自転車だの登山だのクライミングだのそんなのぜんぶお遊びだというかもしれない。
そう考えてみると収集がつかないともいえる。
そもそもレースではないからルールもない。
だったら服部文祥のサバイバル登山や角幡唯介の極夜の北極圏行のように、新しいひとつのゲームとして自身が納得するようにルールを定めてしばえばいい。
人それぞれに自分が納得するかたちで冒険の定義を定めてしまう。
そして行動を通した結果、その定義の条件を満たせたかどうかで冒険だったのか冒険ではなかったのか論ずればいいではないのかな。
ちなみに自分の場合は、自転車旅における冒険の定義というものを次のように捉えているよ。
すでに凍傷を患っていてドクターからこれ以上やったら壊死部分の切断確実だと太鼓判を押されてから、どれだけ走る(押す?)ことができるか。
*
いや、このところある冒険クライマーからやたらと本来の冒険とは何ぞやと議論をふっかけられ長電話もかかってきたりするので、ざっと整理してみた。
そもそもルールの存在しないところでの価値基準なんて自分できめればいいと思う。
周囲の意見がどうこうだの雑誌がどうこうだのそんなの関係ねえ!!

頭のなかでイメージできたことはたいてい実現した。
これまでの自分の経験からそうであった。
たとえば20年前の厳冬のカナディアン・ロッキー縦走、期間50日間、距離500キロを試みたときも、旅立ち前にたくさんの不安をかかえつつなぜか自分が山脈を歩ききってしまう姿がイメージできた。
道中でアクシデント諸々あったけれど、最終的にはほぼ当初の予定どおりに踏破することができた。
「初めてのスキーでそんな大それた計画なんて、ちょっと厳しいんじゃない。。。」
あるていど事情に通じている人のコメントはおおむね的を射ている。
でもヘタに事情に通じているがゆえに安全パイを選択しがちだともいえる。
同様のことはこれまでに数えきれないほど経験している。
いっぽう自分にそこそこ経験があろうとも、頭の中でイメージできないことはやはり実現しなかった。
「それだけ経験あることだし、アナタならこれまでのようになんとかこなしちゃうでしょ!」
あるていど事情に通じている人から太鼓判を押されたところで、結果を出すのはあくまでもすべて自分にかかってくる。
踏破しきるイメージができなかったものは、やっぱりダメだった。
2つの結論を得た。
周囲の意見なんて言葉としては正しいのかもしれないが、現状と照合するとほとんど平和ボケしたヒマ人の雑音に過ぎないことが多い。
できるできないの分岐点が経験とか技術よりも、頭の中で描く想像力みたいなものに大きく左右される。
だから頭の中でイメージできることは、夢としてかたちになる。
*
この写真はカナダ中央平原北部のときのもの。
両方の足指に酷い凍傷を負いながらもなんとか可能性を見いだそうと、ひたすら地図を眺める。
体力トレーニングや装備の選択などよりも、ひたすら地図を眺めてイメージする時間をことのほかだいじにしている。