自転車旅は果たして冒険といえるのか?
最近そうよく訊かれる。
おそらくさまざまな意見が飛び交うだろう。
でもまず自転車旅以前に、冒険の定義を定めないと話は進展しない。
そもそも冒険の定義そのものが曖昧模糊としている。
リスクをおかすこと、主体性があること、危険であること、などなど冒険を成す要素は多種多様すぎる。
個人個人によっても捉え方はあまりにも幅がありすぎる。
同じ行為であっても各々の経験値によっても大きくちがってくる。
ある人にとってはルンルン気分のお散歩であっても別の人にとっては清水寺の舞台から飛び降りる覚悟だったりする。
だって頭のぶっ飛んだ先鋭クライマーにとっては、落ちたら確実に死ぬようなフリーソロ(ロープを結ばずにクライミング)でなければ冒険にはならなかったりする。
いっぽうで3歳くらいのお子さまにとっては、もしかしたらはじめてのおつかいだってじゅうぶんにリスクがあるともいえよう。
もしかしたら戦場カメラマンにとっては、自転車だの登山だのクライミングだのそんなのぜんぶお遊びだというかもしれない。
そう考えてみると収集がつかないともいえる。
そもそもレースではないからルールもない。
だったら服部文祥のサバイバル登山や角幡唯介の極夜の北極圏行のように、新しいひとつのゲームとして自身が納得するようにルールを定めてしばえばいい。
人それぞれに自分が納得するかたちで冒険の定義を定めてしまう。
そして行動を通した結果、その定義の条件を満たせたかどうかで冒険だったのか冒険ではなかったのか論ずればいいではないのかな。
ちなみに自分の場合は、自転車旅における冒険の定義というものを次のように捉えているよ。
すでに凍傷を患っていてドクターからこれ以上やったら壊死部分の切断確実だと太鼓判を押されてから、どれだけ走る(押す?)ことができるか。
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いや、このところある冒険クライマーからやたらと本来の冒険とは何ぞやと議論をふっかけられ長電話もかかってきたりするので、ざっと整理してみた。
そもそもルールの存在しないところでの価値基準なんて自分できめればいいと思う。
周囲の意見がどうこうだの雑誌がどうこうだのそんなの関係ねえ!!
頭のなかでイメージできたことはたいてい実現した。
これまでの自分の経験からそうであった。
たとえば20年前の厳冬のカナディアン・ロッキー縦走、期間50日間、距離500キロを試みたときも、旅立ち前にたくさんの不安をかかえつつなぜか自分が山脈を歩ききってしまう姿がイメージできた。
道中でアクシデント諸々あったけれど、最終的にはほぼ当初の予定どおりに踏破することができた。
「初めてのスキーでそんな大それた計画なんて、ちょっと厳しいんじゃない。。。」
あるていど事情に通じている人のコメントはおおむね的を射ている。
でもヘタに事情に通じているがゆえに安全パイを選択しがちだともいえる。
同様のことはこれまでに数えきれないほど経験している。
いっぽう自分にそこそこ経験があろうとも、頭の中でイメージできないことはやはり実現しなかった。
「それだけ経験あることだし、アナタならこれまでのようになんとかこなしちゃうでしょ!」
あるていど事情に通じている人から太鼓判を押されたところで、結果を出すのはあくまでもすべて自分にかかってくる。
踏破しきるイメージができなかったものは、やっぱりダメだった。
2つの結論を得た。
周囲の意見なんて言葉としては正しいのかもしれないが、現状と照合するとほとんど平和ボケしたヒマ人の雑音に過ぎないことが多い。
できるできないの分岐点が経験とか技術よりも、頭の中で描く想像力みたいなものに大きく左右される。
だから頭の中でイメージできることは、夢としてかたちになる。
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この写真はカナダ中央平原北部のときのもの。
両方の足指に酷い凍傷を負いながらもなんとか可能性を見いだそうと、ひたすら地図を眺める。
体力トレーニングや装備の選択などよりも、ひたすら地図を眺めてイメージする時間をことのほかだいじにしている。
自然環境云々に関心はないのかともたまに訊かれる。
そもそも自然環境のためを思ったら、登山も冒険も旅もしないほうがいいのかもしれない。
先進国の人たちが日常生活を営んでいるだけで、自然環境には膨大なダメージを与えている。
登山や冒険や旅をするということは、日常生活以上にモノもエネルギーも消費する。
それでも登山や冒険や旅で自然に触れることによって、自然環境というものを頭のなかだけでなく実感としてとらえて考えるきっかけになったりするのはたしかだ。
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この焚き火の写真は、厳冬カナダ中央平原で撮ったもの。
同じカナダでも国立公園内では、立ち木を切ることは言語道断だし焚き火に関しても大きく制限されている。
このカナダ中央平原では、そのような制限はない。
立ち木を伐り出して焚き火をする。
広大な土地にわずかな人が住んでいるので、自然環境へのストレスが少ない。
先住民たちは暮らすのに必要以上の消費をしない。
なによりも自然環境云々などど頭でっかちなきれいごといってたら、この地ではすぐに凍死してしまう。
旅先の土地の人たちとの交流についてもよく訊かれる。
日ごろから愛想などという表情とはほど遠いほうだ。
たいていの人とは目も合せないのに、いったいどのようなタイミングで人と知り合っていくのか、ともよく訊かれる。
結論から言うと、自分から話しかけることはきわめてすくない。
自分のやっていることを説明するには、日本語でもかなり骨が折れる。
それでも旅行者の少ないエリアでは、めずらしがられるのか頻繁に土地の人から話しかけられる。
誰かに話しかけられても、ぶっきらぼうに突き放すようにしか答えない。
当然相手も怪訝そうな表情になるが、そうしたなかでただひとつ好印象をもたれる会話のやりとりがある。
「ところでどうしてこんなマイナーな場所を旅しているんだ? そもそもどうしてこんな場所を知ってるんだ?」
「まず雄大な自然に魅かれてカナダを選んだんだよ。そのなかでもこのエリアは、手つかずの自然が残されていてたいへん気に入っている。ここで眺める夕日はサイコーだ。もう3冬も訪れているよ」
その土地の魅力を褒めると、ほぼまちがいなくその土地の人はよろこんでくれる。
ぶっきらぼうだった会話が、いつしか大歓迎になってしまったりする。
「寒いからウチにコーヒーでも飲みにこないか? 夕食を食べにこないか?」
それからはもう芋ずる式に知り合いを紹介されてゆく。
あとで知ったことだが、一般的にマイナーなエリアほどその土地を褒めるとひじょうによろこんでもらえるようだ。
山や冒険における行動パターンは、ネコのように気まぐれだとか無計画だとかよくいわれる。
沢木耕太郎の『深夜特急』じゃないけれど、朝目が覚めたときにその日の行動をきめているからだろうか。
自然界ではしばしば想定外のことが起きる。
しょせん人間の力など、自然界の力にはおよばない。
人間が机上でつくりあげた計画を、自然界の摂理に押し込もうとすることにむりがある。
明日のことなど、わかるところまでしかわからない。
計画に従順になるよりもなんとなく行きたくない行きたい、といった自身の内なる声に耳をかたむけている。
臨機応変ともネコのような気まぐれともいえる。
のんびりしているとも待機しているとも。
もしかしたら山や冒険で生き残った人と生き延びられなかった人との境は、そのあたりにあるのだろうか。