きのう読んだ(読み終えた)本。
『外道クライマー』(宮城公博著)
登山や冒険モノの本(雑誌の記事でも)が出たとき、読み手はだいたい大きくわけて2つの陰口をたたくようだ。
「やっていることは独創的だし技術的な難易度は高い。そうかんたんにマネできない。でも文章は淡々としてネタも地味ではっきりいっておもろくねえ!」
(先鋭的なクライミングに多いかな。ぜんぶがぜんぶじゃないけど)
「めりはりのあるわかりやすい文章とドラマチックな構成から成り感動的だ。でも、やっていることはあるていどの休暇と予算があれば誰でもできるじゃん!!」
(自転車旅とかに多いかな。こちらもぜんぶがぜんぶじゃないけど)
表現も行動もともにというのはやはりなかなかにむずかしいようだ。
でもこの本は、行動も表現もともにイケる。
なによりもネタからして斬新だ。
立ち入り禁止の滝を登って逮捕されたり、密林の沢では大蛇と格闘したり。
あるいはタイの歓楽街で現地の女の子にハマった50歳ちかいエロ・オヤジをそそのかして、厳冬の立山の雪崩の巣に突っ込んでみたり。
タイのエロ・オヤジはべつとして、なんだか子供のころにイメージしていた探検物語の世界のようだ。
そして舞台は海外へも。
台湾、ミャンマー、タイなどアジア旅ではすっかりおなじみの国だが、この本では沢登りの舞台として登場する。
沢登りは日本独自の登山っていったのは誰だとツッコミたくなるけど、要はこれまで見過ごされてきたエリアにおいて新たなる沢登りのスタイルを見いだし実践している。
展開しているのは沢登りだけにとどまらない。
厳冬の立山の称名滝やハンノ木滝において、日本国内でもっともロシアンルーレット度の高い(3回トライしたら1回くらいは死んじゃうかなというくらい)クライミングも行っている。
ほかの人たちが課題はなくなった地球はせまくなったあんなのは自殺しにゆくようなもんだと酒飲んではチャレンジしない理由をぐだぐだ語っているあいだに、この著者は地図や資料を丹念に調べて可能性を見出してゆく。
だからこの本を読んでいると地球がどんどんひろくなってゆく。
可能性の幅もどんどんひろがってゆく気分になる。
マジで日本国内だけでもまだまだあらゆる可能性があるじゃん。
そう思えてくる。
山屋や沢屋にありがちな、堅苦しさ暗さ重苦しさがない。
状況は陰惨きわまりないはずなのに、どこかマンガチックで軽快に綴っている。
だからすらすら読めてしまう。
この勢いで、2冊目も出してほしいね。
きのう読んだ(読み終えた)本。
『アローン・オン・ザ・ウォール』(アレックス・オノルド著)
究極のフリーソロ(ロープなしで登る。堕ちたら死ぬ)クライマーの軌跡。
読めば読むほど、凹むし激しい劣等感につつまれる。
だってこの著者のやってること、どう考えてもマネできない。
反復練習をくり返してコツコツやれば、大器晩成という言葉があるという人もいるかもしれない。
でもそういっている人って、時間とお金さえかければ誰でも到達可能な狭い世界しか知らなかったりする。
他人は他人、自分は自分、っていう人もいるかもしれない。
でもそういっている人って、自分のまわりに突出した優秀な人が居らず毒にも薬にもならない輩に囲まれているだけだったりする。
「オメーがやってんのなんか、クライミングでも何でもねえ。そんなの岩に触れたうちにも入らねえ! すこしは頭を冷やせ!!」
ページをめくるごとに、自分がそう罵倒されてるようだ。
仕方ないよな。
柔軟性をはじめとした身体能力、恐怖の克服の仕方、まわりが何といおうが突き進めるモチベーション、、、
どれをとっても、自分がやってることなんてしょせんはそのていどにすぎないのだから。
自分にはクライミングの才能が皆無だと二十歳のころに悟ったけど、この本を読んであらためて才能のなさが決定的なものになった。
まあ人生において「気づき」はたいせつだ。
自分には手が届かないと現実を受け入れることによって、こんどはちがう可能性の扉がひらくということだってあるのだからね。
ただ、、、
過ぎてしまった過去に対して、もし何々だったらできたかもしれない、というのはあり得ないことだし言ってもいけないことである。
それでもあえて問うてみたい。
もしクライミングの才能のなさに気づくのにもうすこし遅かったら、もしかしたら行動半径ももうすこしひろがっていたような気がする。
気づかないというのも、ある種の才能なのかな、、、
2016.3.27 08:48 [
冒険 山 戯言]
登山も冒険も旅も、もっと自由にやればいいのになぁ。
このところよくそんなふうに思う。
たとえばだけど、いざというときの後ろ盾となる無線機やら衛星携帯やらGPSやらを持って行くことが、フェアであるとかフェアでないとか。
サポートやデポは、良いだのわるいだの。
あれダメこれダメこれもダメ、、、
自由を求めて登山や冒険や旅に出かけているはずが、これじゃあはっきりいって本末転倒だね。
ちなみに自分の場合、国内においてはスマホは持って行く。
理由は、ネット依存症だからだ(笑)
それと無線機やGPSは持って行かない。
理由は、なんとなくうざったいから。
持っていきたければ持っていけばいい。要らないとおもえば置いていけばいい。
堅苦しい理屈なんかよりも感覚的にきめている。
冒険論云々はもちろんたいせつだけど、自分がやりたいテーマを自分の好きなスタイルでやることのほうがもっとたいせつなんじゃないのかな。
規制というのはやはりわずらわしい、純粋に山や自然と対峙したい。
自転車旅は果たして冒険といえるのか?
最近そうよく訊かれる。
おそらくさまざまな意見が飛び交うだろう。
でもまず自転車旅以前に、冒険の定義を定めないと話は進展しない。
そもそも冒険の定義そのものが曖昧模糊としている。
リスクをおかすこと、主体性があること、危険であること、などなど冒険を成す要素は多種多様すぎる。
個人個人によっても捉え方はあまりにも幅がありすぎる。
同じ行為であっても各々の経験値によっても大きくちがってくる。
ある人にとってはルンルン気分のお散歩であっても別の人にとっては清水寺の舞台から飛び降りる覚悟だったりする。
だって頭のぶっ飛んだ先鋭クライマーにとっては、落ちたら確実に死ぬようなフリーソロ(ロープを結ばずにクライミング)でなければ冒険にはならなかったりする。
いっぽうで3歳くらいのお子さまにとっては、もしかしたらはじめてのおつかいだってじゅうぶんにリスクがあるともいえよう。
もしかしたら戦場カメラマンにとっては、自転車だの登山だのクライミングだのそんなのぜんぶお遊びだというかもしれない。
そう考えてみると収集がつかないともいえる。
そもそもレースではないからルールもない。
だったら服部文祥のサバイバル登山や角幡唯介の極夜の北極圏行のように、新しいひとつのゲームとして自身が納得するようにルールを定めてしばえばいい。
人それぞれに自分が納得するかたちで冒険の定義を定めてしまう。
そして行動を通した結果、その定義の条件を満たせたかどうかで冒険だったのか冒険ではなかったのか論ずればいいではないのかな。
ちなみに自分の場合は、自転車旅における冒険の定義というものを次のように捉えているよ。
すでに凍傷を患っていてドクターからこれ以上やったら壊死部分の切断確実だと太鼓判を押されてから、どれだけ走る(押す?)ことができるか。
*
いや、このところある冒険クライマーからやたらと本来の冒険とは何ぞやと議論をふっかけられ長電話もかかってきたりするので、ざっと整理してみた。
そもそもルールの存在しないところでの価値基準なんて自分できめればいいと思う。
周囲の意見がどうこうだの雑誌がどうこうだのそんなの関係ねえ!!
頭のなかでイメージできたことはたいてい実現した。
これまでの自分の経験からそうであった。
たとえば20年前の厳冬のカナディアン・ロッキー縦走、期間50日間、距離500キロを試みたときも、旅立ち前にたくさんの不安をかかえつつなぜか自分が山脈を歩ききってしまう姿がイメージできた。
道中でアクシデント諸々あったけれど、最終的にはほぼ当初の予定どおりに踏破することができた。
「初めてのスキーでそんな大それた計画なんて、ちょっと厳しいんじゃない。。。」
あるていど事情に通じている人のコメントはおおむね的を射ている。
でもヘタに事情に通じているがゆえに安全パイを選択しがちだともいえる。
同様のことはこれまでに数えきれないほど経験している。
いっぽう自分にそこそこ経験があろうとも、頭の中でイメージできないことはやはり実現しなかった。
「それだけ経験あることだし、アナタならこれまでのようになんとかこなしちゃうでしょ!」
あるていど事情に通じている人から太鼓判を押されたところで、結果を出すのはあくまでもすべて自分にかかってくる。
踏破しきるイメージができなかったものは、やっぱりダメだった。
2つの結論を得た。
周囲の意見なんて言葉としては正しいのかもしれないが、現状と照合するとほとんど平和ボケしたヒマ人の雑音に過ぎないことが多い。
できるできないの分岐点が経験とか技術よりも、頭の中で描く想像力みたいなものに大きく左右される。
だから頭の中でイメージできることは、夢としてかたちになる。
*
この写真はカナダ中央平原北部のときのもの。
両方の足指に酷い凍傷を負いながらもなんとか可能性を見いだそうと、ひたすら地図を眺める。
体力トレーニングや装備の選択などよりも、ひたすら地図を眺めてイメージする時間をことのほかだいじにしている。
自然環境云々に関心はないのかともたまに訊かれる。
そもそも自然環境のためを思ったら、登山も冒険も旅もしないほうがいいのかもしれない。
先進国の人たちが日常生活を営んでいるだけで、自然環境には膨大なダメージを与えている。
登山や冒険や旅をするということは、日常生活以上にモノもエネルギーも消費する。
それでも登山や冒険や旅で自然に触れることによって、自然環境というものを頭のなかだけでなく実感としてとらえて考えるきっかけになったりするのはたしかだ。
*
この焚き火の写真は、厳冬カナダ中央平原で撮ったもの。
同じカナダでも国立公園内では、立ち木を切ることは言語道断だし焚き火に関しても大きく制限されている。
このカナダ中央平原では、そのような制限はない。
立ち木を伐り出して焚き火をする。
広大な土地にわずかな人が住んでいるので、自然環境へのストレスが少ない。
先住民たちは暮らすのに必要以上の消費をしない。
なによりも自然環境云々などど頭でっかちなきれいごといってたら、この地ではすぐに凍死してしまう。