厳冬の津軽の山の記事を書いたよ。
爆弾低気圧の襲来にあわせての入山、4年前より10回以上トライしたけれど全滅だった。
それでも1つの節目はついたかなという気分にはなっている。
そもそも完成なんて永遠にあり得ない。
角幡唯介、佐藤裕介、大西良治といった自分にとっては雲の上どころか天に近いような存在のクライマーたちに混じって紹介されとるけど、自分の冒険論はそれなりに綴れたかなと思う。
詳細はこちらだよ。
http://www.gakujin.jp/menu105/
昨夜読んだ本。
(十代のときに何度も読み返した。たぶん30年ぶりくらいの再読)
『十六の墓標 炎と死の青春』(永田洋子著)
極左テロリストの獄中手記。
革命という理想のために銀行強盗、猟銃強奪、そして同志殺害。
その是非はともかく、、、
すごい潔く行動しちゃうんだなというのが、いちばんはじめに読んだときの感想だった。
自分が十代というオトナ(口先だけで実行しない人種)がもっとも信用できない年代だったからだろうか。
だってたいていの人たちは飲んだ席では理想を掲げて熱く語っても、いざ実行となるとできない理由を並べているだけだったから。
物事に真剣に取り組んだら最後は精神が破綻するか人を殺めるか自死するかになっちゃうのかなとも思った。
自分にはそこまでできないな、とも思った。
そして十代のときの読後感は、30年経ったいまもあまり変わってなかった。
ちなみに自分は革命を支持しているわけでも人殺しを肯定しているわけでもこの著者の行動が正しいといっているわけでもない。
あくまでも妥協を許さない姿勢においてスゴイなという意味だ。
『高熱随道』(吉村昭著)
たぶん25年ぶりくらいの再読かな。
ほんとうにがんばった人は、表現する余裕もなく現場で逝ってしまったりする。
ほんとうに苦労した人は、声を発する機会もあたえられずに自殺に追いこまれたり行方不明になってしまったりする。
苦労話や武勇伝がダメだとはもちろん言わないけれど、そうした背景のもとに目立つ人というものが成り立っている。
『果てしなき山稜』(志水哲也著)が文庫本になった。
襟裳岬から日高山脈、十勝・大雪山系、北見山地そして宗谷岬へ、距離700キロ、期間半年。
厳冬の北海道を舞台にした山スキーによる単独踏破の紀行。
このなかのピークのどれか1つでも厳冬に立ってみればわかるけど、猛烈なラッセル、ホワイトアウト、雪庇踏み抜きによる墜落などどれもあまりにもリスクが高い。
(ピーク1つに立つだけでもじゅうぶんにたいへん)
はやい話がいつ死んでもおかしくない。
この山行が成されたのはすでに20年前だが、公に発表されたものや風の噂をふくめてもまだ追従する者は出てきていないようだ。
アスリートとしてのレベルが格段に上がってきて、山の天気や雪質の情報の質も格段に進歩しても、それに続く記録がないということは、科学による力では解決できない要素があまりにも多いということだ。
さて、この本で感動するのは、客観的な難度云々よりも物事に真摯に取り組む姿勢であろう。
とにかく目標を設定したら後先のことなどぐだぐだ考えずに、惚れ込んだルートに全身全霊であたる。
そして目標達成と同時に虚無感にも似た思いにつつまれているようにすら感じる。
最後はまっ白に燃え尽きる、明日のジョーみたいだ。
でもたとえ虚無感しか残らなかったとしても、情熱を完全燃焼させるという経験はそうそうできるものではないだろう。
縦走モノといえば単純作業のくり返しで、時間を費やしてコツコツ努力すれば誰にでもできると思われがちだ。
たしかに当たらずしも遠からず。
クライミングにくらべると先天的なセンスを問われる部分はすくない。
しかし目標に対してなりふりかまわずに情熱を傾けられるというのは、その生き方をふくめてある種の先天的な才能にすら思える。
2016.10.21 10:50 [
山 戯言 旅]
秋晴れの下ノ廊下を歩きながらこんなことを思った。
*
それにしてもよくこんなところに道を拓いたものだなぁ。
当時の職人さんたちの苦労が、ちょっと想像がつかない。
(水平歩道のむこうに見える奥鐘山西壁はオマエ登ってみろといわれれば登れちゃう(実際10回くらい登ったからね)けれど、じゃあオマエ水平歩道を作れといわれたらまったくお手上げだ)
もしかしたらというか当然というか、、、
ほんとうに現場でがんばっている人やほんとうに苦労した人って、多くを語ることもなくそして歴史のなかで名前も残ることもないんだろうな。
机上の歴史と現場の歴史の溝、それは黒部峡谷のように深い。