穂高岳のバリエーションルートについてエッセイを書いた。
大正時代の上條嘉門次の奥穂高岳・南稜から、平成の草野俊達の屏風岩東壁の単独オールフリーによる新ルート開拓まで。
いずれにしても登攀におけるエピソードを掘り下げる作業はおもしろい。
詳細は、きょう発売の『山と溪谷』。
昨夜ひさびさに読み返した本。
『山本美香という生き方』(山本美香、日本テレビ編)
まず山本美香とは、、
イラク戦争など世界の紛争地を取材したジャーナリスト。2012年シリア取材中に銃撃戦で殺害される。享年45。
2013年3月、山本美香の著書を集中的に読んだ。
ちょうど冬のカナダの旅で酷い顔面凍傷で片目がかんぜんに見えなくなって帰国した直後だった。
冒険の最中にほんとうに行き詰まったらどうすべきなのか。さいごのさいごまで諦めずに生ききるべきなのか。助かる見込みがうすければ潔く自死をえらぶべきなのか。
SNSでシリアスな文を綴ったら予想どおり批判的な意見が寄せられた。
とりわけバックパッカー、自転車、バイク旅などの人たち(ぜんぶがぜんぶじゃないけれど)の意識の低さや型にハマり過ぎた考え方には辟易させられた。
チャレンジを標榜する彼らにとって、リスクとはいったい何を意味したのであろう。
そんなとき偶然出会ったのが山本美香の著書。
・仲間が撃たれたらどうするか。そのときそのとき、自分の判断でやればいい。撮りたければ撮ればいい。助けたければ助ければいい。どっちが正解かってことはない。
・なぜ目の前に人が倒れていて、助けないんだ。撮り続けるあなたは間違っている。そういうくだらないことを言う人は現場を知らない。怖い思いをしたこともない。
ここ数年、がんばらない登山がことのほかおもしろい。
(もともとあんまりがんばらなかったけれど(笑))
あらゆるものを犠牲にして前へ前へすすむ登山とおなじくらい、がんばらない登山もおもしろい。
でも誰かから価値観を強要されたような登山は、ゆるゆるでもストイックでも評価されなくても高く評価されても、やっぱりおもしろくない。
昨夜、読み終えた本。
3年ぶりの再読。
『漂流』(角幡唯介著)
37日間海上を漂流したすえに生還したマグロ漁師を追ったルポ。
ところが奇跡の生還を果たしてから8年後、ふたたび海に出て行方不明になってしまう。
いったいなぜ、己の生命を飲み込もうとした海へふたたび向かったのだろうか。
この著者はこの漂流した漁師の暮らす伊良部島(宮古島の左隣)の佐良浜を取材しながら、その土地の漁師たちの気質と漂流が深く関係していることを浮き彫りにしてゆく。
鷹揚(おうよう)として物事に動じない。後先のことをあまり深く考えずに目の前に起きていることに集中する。あるいは存分に楽しむ。これぞ海の民。
佐良浜の漁師は極限状況に強い。
しかし能天気さは裏を返せば杜撰(ずさん)ともいえる。
過酷な自然状況のなかでの強さは、長所にもなれば短所にもなり、ときに死を呼び起こす。
どこかで聞いたことはないだろうか。
一部のクライマーや冒険家も厳しい雪山に行って重度の凍傷を患ったりクレバスに落ちても奇跡の生還を果たす。手術して長期入院しても、退院するとすぐに山や岩場に向かう。
社会のシステムの外側の懲りない面々、なのだ。
そして強すぎるクライマーや冒険家は概して若くして果てる。
佐良浜の漁師(一部のクライマーや冒険家もふくめて)のような気質もまたひとつの世界観を確立しているのはたしかだ。
ほかに生きる道がないというのもひとつの生き方なのかもしれない。
努力は報われない。
そう解釈したほうが辻褄が合ったりする。まわりを見るかぎり。
周囲から小バカにされようが孤立無援になろうが、前に進む以外に生きる道はない。
そのくらいの心意気で取り組んでいる人は、有形無形なんらかのものを掴んでいる。これまたまわりを見るかぎりそうだ。
精進することを否定しているのとはちがう。努力という言葉の裏には、自身が納得するためというよりも他者に認めてもらいたくて嫌々何かをやるという意味合いが大きいような気がしてならない。