昨夜、読み終えた本。
『山と友 Ⅲ 第一巻 山 東京大学運動会スキー山岳部百周年記念誌』(東京大学山の会編)
(何年か前に届いてようやく読んだ)
大正時代より令和まで、百年間の部の活動。
なによりも時代の変化にいちはやく対応している。
昭和の時代の大学山岳部って伝統遵守で、新しいことをなかなか受け入れない傾向があった。
たしかに明確な課題があるときは考え方を固めたほうが効率的だけれど、課題が見えなくなったとたん行き詰まる。
やはり発想の転換はだいじだ。
・冬の前穂高岳北尾根に1000メートルのロープをフィックス。
→安全が確保できれば技術や経験の不足をカバーできる。1、2年生も山頂に立つことが可能になる。
・シブリン北稜の難しい岩稜で難しい箇所では登山靴から運動靴(クライミングシューズが出まわっていないころは運動靴だった)に履き替える。
→雪さえ付いていなければヒマラヤだろうが冬壁だろうが、登山靴で登ることはない。安全かつ速さ。雪も氷も付着していないのに登山靴にアイゼンじゃないとダメ、と融通の効かない人が多い。
ほかにも昭和の時代は多くの大学山岳部で消極的だったフリークライミングや冬壁を積極的に取り入れ、難峰といわれるシブリン北稜(初登)やK7(初登)へとつながってゆく。
大学山岳部にかぎらずに行き詰まるときって、だいたい思考の凝り固まりが原因のようだ。
その凝り固まりから解き放たれるには、やっぱりめっちゃ頭を使う。
昨夜はThe Tribで小松由佳さんのトークイベント。
(K2(8611m)日本人女性初登頂。第23回開高健ノンフィクション賞受賞)
「K2から草原、砂漠へ。人間の土地へ」
これまであまり語られてこなかった登攀から旅へ、そして写真の世界に入ったはなし。
たしかにヒマラヤの氷壁登攀とアジアの遊牧民の暮らしはむすびつかない。
しかし登攀もアジアの旅もシリア内戦取材も、舞台が変わっただけで自身のなかでは好奇心の赴くままに未知の世界を歩きつづけているのだ。これからも歩きつづける。
1963年8月に谷川岳一ノ倉沢衝立岩のダイレクトカンテを初登した東京都立大学山岳部の川副博司のはなしを思い出した。
登攀は学生時代でひと区切りつけたのち、研究の分野にすすむ。
未知の領域への挑戦という意味では、岩場のルート開拓も最先端の研究も意識はおなじではないか。ただ取り組む問題が異なるだけだ、と。
自殺云々を語る人に死ぬ気になれば何でもできるでしょう、という者がいる。
そういっている人のできるって、登山や旅でいったらツアーが出ているレベルに留まる。
死ぬ気でやれば何でもできるといっている人で、冬の奥鐘山西壁のAAVKや冬でなくてもマカルー西壁にトライした者は少なくともまわりにはいないな。
解決可能な領域しか体験せずに、軽々しくポジティブな発言しないでほしい。
一昨日、高尾山でのマン・ウォッチング。
高価な登山靴やウエアで身をかためた、いわゆるお手本の格好をした人ほど、映画『八甲田山 死の彷徨』みたいに生と死の分岐点をおもわせる歩き方をしていたよ。
ヤンキーが街からそのままやって来ちゃったみたいな人のほうが、元気で楽しそうに歩いていたよ。
えっ、軽装でもし何かあったらどうするのかって?
想定外のときって案外ちゃらちゃら組のほうが強かったりする。
たぶん自分がやっていることは一般的な登山とは異なるのだろう。
降雪量が多いとおもわれるとき(寒波襲来など)にもっとも雪が溜まりそうなところ(森林限界上よりも樹林帯)をめざす。
そして、そこから帰る。
ハマるからドラマが生まれる。
山も旅も自由にやっていい。
とりあえず、あけおめだよ。
体調良くなくて新年のネタがないから会社の年賀状。
昨夏のオイラの江ノ島の灯台の塗装作業だよ。