「語るに値することは何ひとつありませんッ!」
近況を訊かれてそう答えると、たいてい空気が凍りついて会話が途切れる。
だってオリンピックでさんざんメダルをいくつ獲得したとか話題になってるってのに、自分なりにコツコツ努力したくれえで皆の前で何々やりましたなんておこがましくないだろうか。
他人との比較がすべてではないとはいえ、客観性がなさすぎるのもどうかな。
行動の成果そのもので完結するスポーツに対して、登山や冒険はいくらでも言葉によって偽造することができてしまう。
同じ登山や冒険であっても、死ぬかと思ったと一言添えることで、とたんにグレードアップされてしまう。
いや純粋に行動で勝負するアスリートと行動で足りないところを口でちゃらまかしてしまう登山家や冒険家のすさまじいばかりのギャップをすごく感じたりしているから。
だから近況を訊かれても、ぶっきらぼうに何もしてません、って自然に口から出ちゃう。
そういうトゲトゲしいノリが一般大衆を前にふさわしくないということはわかってるんだけど。
植村直己冒険賞20周年記念、ちょっと疲れたかな。
いや、けっこう疲れた。
「厳冬北極圏の旅 ――スキーと徒歩で400キロ、34日間――」(冒険家・関口裕樹)
●トーク内容
冒険家・関口裕樹さんが帰国早々報告会をやります!
前半は、関口さんの今冬の北極圏での旅。極地冒険には必携品といわれる衛星携帯電話や無線機を拒否。凍ったカリブーやクジラの生肉を食らい、カリブーの毛皮にくるまって夜を過ごす。最新鋭の電子機器、鋭超軽量の乾燥食品や新素材の防寒具が氾濫する今の時代に、なぜあえて古代の先住民のスタイルを求めたのか。みずから創りだした新しい旅のスタイルについて語っていただきます。
後半は、「人間やればできるなんて真っ赤な嘘。そんな寝言をいっとる輩は、やれば誰でもできるレベルで人生の幕を閉じる」など過激とも大人げないとも真実を突いているともいわれる「田中幹也語録」を放ち冒険界からも登山界からも社会からも大ヒンシュクを買う田中幹也さんと二人で対談。これからの冒険の可能性について語る予定です。
●日時
4月24日(日) 17時から19時
●場所
「おみせのようなもの」
横浜市南区中村町3-197
http://omise.nojukuyaro.net/?cat=5
●参加費
500円
●詳細
http://omise.nojukuyaro.net/
どなたでも参加できます!
来冬以降のほかではなかなか聞けない貴重なはなしも聞けるかもよ!!
●プロフィール
〈関口裕樹〉
http://ameblo.jp/timl40000k/theme-10049745165.html
〈田中幹也〉
ホームページ
自転車旅は果たして冒険といえるのか?
最近そうよく訊かれる。
おそらくさまざまな意見が飛び交うだろう。
でもまず自転車旅以前に、冒険の定義を定めないと話は進展しない。
そもそも冒険の定義そのものが曖昧模糊としている。
リスクをおかすこと、主体性があること、危険であること、などなど冒険を成す要素は多種多様すぎる。
個人個人によっても捉え方はあまりにも幅がありすぎる。
同じ行為であっても各々の経験値によっても大きくちがってくる。
ある人にとってはルンルン気分のお散歩であっても別の人にとっては清水寺の舞台から飛び降りる覚悟だったりする。
だって頭のぶっ飛んだ先鋭クライマーにとっては、落ちたら確実に死ぬようなフリーソロ(ロープを結ばずにクライミング)でなければ冒険にはならなかったりする。
いっぽうで3歳くらいのお子さまにとっては、もしかしたらはじめてのおつかいだってじゅうぶんにリスクがあるともいえよう。
もしかしたら戦場カメラマンにとっては、自転車だの登山だのクライミングだのそんなのぜんぶお遊びだというかもしれない。
そう考えてみると収集がつかないともいえる。
そもそもレースではないからルールもない。
だったら服部文祥のサバイバル登山や角幡唯介の極夜の北極圏行のように、新しいひとつのゲームとして自身が納得するようにルールを定めてしばえばいい。
人それぞれに自分が納得するかたちで冒険の定義を定めてしまう。
そして行動を通した結果、その定義の条件を満たせたかどうかで冒険だったのか冒険ではなかったのか論ずればいいではないのかな。
ちなみに自分の場合は、自転車旅における冒険の定義というものを次のように捉えているよ。
すでに凍傷を患っていてドクターからこれ以上やったら壊死部分の切断確実だと太鼓判を押されてから、どれだけ走る(押す?)ことができるか。
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いや、このところある冒険クライマーからやたらと本来の冒険とは何ぞやと議論をふっかけられ長電話もかかってきたりするので、ざっと整理してみた。
そもそもルールの存在しないところでの価値基準なんて自分できめればいいと思う。
周囲の意見がどうこうだの雑誌がどうこうだのそんなの関係ねえ!!
自然環境云々に関心はないのかともたまに訊かれる。
そもそも自然環境のためを思ったら、登山も冒険も旅もしないほうがいいのかもしれない。
先進国の人たちが日常生活を営んでいるだけで、自然環境には膨大なダメージを与えている。
登山や冒険や旅をするということは、日常生活以上にモノもエネルギーも消費する。
それでも登山や冒険や旅で自然に触れることによって、自然環境というものを頭のなかだけでなく実感としてとらえて考えるきっかけになったりするのはたしかだ。
*
この焚き火の写真は、厳冬カナダ中央平原で撮ったもの。
同じカナダでも国立公園内では、立ち木を切ることは言語道断だし焚き火に関しても大きく制限されている。
このカナダ中央平原では、そのような制限はない。
立ち木を伐り出して焚き火をする。
広大な土地にわずかな人が住んでいるので、自然環境へのストレスが少ない。
先住民たちは暮らすのに必要以上の消費をしない。
なによりも自然環境云々などど頭でっかちなきれいごといってたら、この地ではすぐに凍死してしまう。
旅先の土地の人たちとの交流についてもよく訊かれる。
日ごろから愛想などという表情とはほど遠いほうだ。
たいていの人とは目も合せないのに、いったいどのようなタイミングで人と知り合っていくのか、ともよく訊かれる。
結論から言うと、自分から話しかけることはきわめてすくない。
自分のやっていることを説明するには、日本語でもかなり骨が折れる。
それでも旅行者の少ないエリアでは、めずらしがられるのか頻繁に土地の人から話しかけられる。
誰かに話しかけられても、ぶっきらぼうに突き放すようにしか答えない。
当然相手も怪訝そうな表情になるが、そうしたなかでただひとつ好印象をもたれる会話のやりとりがある。
「ところでどうしてこんなマイナーな場所を旅しているんだ? そもそもどうしてこんな場所を知ってるんだ?」
「まず雄大な自然に魅かれてカナダを選んだんだよ。そのなかでもこのエリアは、手つかずの自然が残されていてたいへん気に入っている。ここで眺める夕日はサイコーだ。もう3冬も訪れているよ」
その土地の魅力を褒めると、ほぼまちがいなくその土地の人はよろこんでくれる。
ぶっきらぼうだった会話が、いつしか大歓迎になってしまったりする。
「寒いからウチにコーヒーでも飲みにこないか? 夕食を食べにこないか?」
それからはもう芋ずる式に知り合いを紹介されてゆく。
あとで知ったことだが、一般的にマイナーなエリアほどその土地を褒めるとひじょうによろこんでもらえるようだ。