一昨日、一気に読んだ本。
『現代アートを続けていたら、いつのまにかマタギの嫁になっていた マタギ村・山熊田の四季』(大滝ジュンコ著)
まずオイラはマタギにも狩猟にも伝統にも限界集落にも、ぜんぜん興味ない。
新潟県最北部という、やや隔絶感のある土地柄に惹かれた。
夏は、猛暑にくわえてメジロやらアブやら吸血系の猛攻撃。
冬は、日本海側に面した山沿い特有の悪天候。そして名物のドスの効いた大雪。
ここ何年か年に数回新潟に通っている。今冬は7回。
(山熊田のある新潟県北部はまだ訪れていない)
この本の舞台となる山熊田をかこむ山や自然、空気に触れてみたくなった。
行くなら厳冬季の猛吹雪の日がいい、誰にも知られずにひとりで。
自然の猛威に肉薄してときに負傷して次の段階で土地の人たち、というのがオイラのこれまでのやや隔絶感のある土地との接し方だった。
昨夜読んだ本。
『コミック版 二十歳の原点』(高野悦子原作)
オイラは十代のころから、今のままじゃダメっておもっていた。
いらい40年ずっとずっとそのおもいは消えない。
おそらく生きているかぎり、今のままじゃダメ、そして何かを変えたいというおもいが燻りつづけるのだろう。
なおコミック版はハッピーエンドだけれど、シリアスな終焉の原作のほうがいいな。
書評を書いた。
『ヤマケイ文庫 登山史の森へ』(遠藤甲太著)
書かれていることだけがすべてではない。
多くの人は、活字にしないと反応しない。
多くの人は、活字にしたとたん鵜呑みにする。
たいせつな記憶って、言葉にしたとたん色褪せてしまう。
あの世まで持っていきたい思い出がある。
眠っている(埋もれている)記録、あってもいい。
山の思い出、すべてを語らなくってもいい。
以上、書評を書きながらメモしたこと。
この本は、一般的な登山者には馴染みのうすい登山(登攀)記録を掘り出して、ときにユーモアをまじえて解説したもの。
先週、読んだ本。
『北海道犬旅サバイバル』(服部文祥著)
アスリートはたいていなんらかの身体的な故障をかかえている。
登山はほかのスポーツにくらべるとまだゆるい。
それでも40歳過ぎれば故障とも仲良く付き合っていかざるを得ない。
この本の著者であるサバイバル登山家は、50歳を前に激しいヒザの痛みに襲われ、引退という二文字がちらつく。
ならば体力が落ちきる前に、それまでの集大成としてこの山旅を企画する。
北海道を宗谷岬から襟裳岬へ。天塩山地、大雪山系、日高山脈と分水嶺に沿ってひたすら歩く。
2019年10月から11月、期間2か月間。
踏破距離700キロ(地図上の計算だと700キロだけれど実質は1000キロくらいか)。
現金もクレジットカードもなし、という新しいスタイル。ついでにバイトもなし。
(これまでほかの旅人が北海道で無銭旅行したはなしは聞くけれど、宿や漁を手伝ったり食糧が手に入るのが前提の旅だった)
愛する犬を連れて。
銃を担いでシカを撃ち食糧にしながら。
(途中3か所の山小屋に米をデポ)
この著者は旅を終えたら体力的な限界を受け入れて引退するのか、それとも、、
「今できる、今しかできない登山をちゃんとやっておくべきだ」(本文より)
ダメだとおもったその時点から、この著者の山旅ははじまる。
このところ身体的な故障で1日に10回くらい「何のために生きてるんやろ」って考えるオイラにとって、たいへん興味深かい本だった。
先週、読んだ本。
『登山史の森へ』(遠藤甲太著)
ほんとうに価値ある登攀や山行って、当事者が多くを語らなくとも、なぜかどこからともなく話題になる。
誰かがいろいろな資料や目撃者の証言と照合して真偽のほどをたしかめ、やがて活字として残される。
そんな山の記録発掘調査の一連の作業を綴ったのがこの本。
この作業は体系的な暗記よりも、先天的な嗅覚がものをいうのではないか。
見えているものだけがすべてではない。
書きたいこといろいろあるけれど、諸事情あってここまで。
昨夜読んだ本。
『彼女たちの山 平成の時代、女性はどう山を登ったか』(柏澄子著)
まずオイラがかろうじて山に行っていたのは昭和の終わりの2シーズンくらい。
平成の時代の山のはなしは、雑誌かSNSくらいでしかわからない。
面識があっても挨拶くらい。
だから自分にとって平成の登山はあくまで傍観者。
かんじたこといろいろ。
昭和の登れる女性クライマーはほぼ身なりに無頓着だったけれど、平成になると身なりに無頓着な登れる女性クライマーが激減した。
昭和のころ「男についてこれない女は山に行く資格なし」と凝り固まった考えの男が、平成になると激減した。
昭和の時代は登山関連のコミュニティが閉鎖的だったけれど、平成になると風通しがよくなった。
ただ風通しがよくなった弊害として、山の世界には場違いではないかとも思われる人たちがそれなりに紛れ込んでしまった。
女性が変化したのか全体が変化したのか。
平成を読むことで昭和が見えてきた。
この本を読みながら、オイラは山の世界からすっかり遠く離れてしまったなってあらためておもった。
ちなみに昭和の時代、この表紙のようなカラフルなウェアはなかった。