きょう読んだ本。
『エベレストには登らない』(角幡唯介著)
いまさら説明するまでもないけれどこの著者は早大探検部の出身。
早大探検部といえば、王道より邪道(とまではいかないか(笑))。
登山に例えれば、すでにたくさん情報のある著名な山をノーマル・ルートから天候の良いときに登頂して成功の2文字を勝ち取るような一般大衆のイメージするスタイルこそ邪道だと捉える。
山に登るならば、名前すら聞いたことのないような山を見つけ出して、さらに断食しながら果たしてどこまで行けるのかといった行為を実験的に行うみたいな(あくまで例え)。
成功したかよりも、その行動を通じて自身のなかでどのような変化があったのか。
どんなハプニングに見舞われて、どのように対処してどんな発見があったのか。
あくまでも推測で書いているけれど、あらゆる資料や人伝に聞いた話から察すると早大探検部はおよそそのような価値観に基づいて行動している。
そう捉えてみると、やや挑戦的にも思える本のタイトルにも納得するだろう。
◇
この本は、ビーパルの連載をまとめたもの。
ちょうど真冬のグリーンランド北極圏に取り組んでいる時期に重なり、その背景をネタにした文章が多い。
やはりというか要所要所で著者の冒険に対する年齢的な焦りが感じられる。
この種のいわゆるヘビー級の冒険はある意味で体力勝負。
経験を積んで知識や技術を習得したところで、いつまでもできるものではない。
花の命ほどではないけれど、冒険のピークの期間はそう長くない。
個人差もあろうがかなりおおざっぱに三十代から四十代にかけての数年間。
角幡唯介はいま43歳。
43歳といえば、植村直己、星野道夫、長谷川恒男、河野兵市、そして谷口けいちゃんがいずれも星になった年齢。
裏を返せば焦りがあるからこそ集中力も高まる。
陰があってはじめて光の存在が浮き彫りになるように、死というリスクが大きくなるからこそ生はよりいっそう輝き、行動者にとって最高の冒険行が生み出される。
だいたい闘牛だって失敗したら死ぬからこそ、観衆はあれだけ引き込まれる。
あっ、なんだかシリアスな話になっちゃったかな。
もしかしたらこのところ自分が登山や冒険における生と死の分岐点について考えすぎているだけなのかもしれない。
この本は、真冬のグリーンランド北極圏だけでなく、愛する娘やはじめてのシーカヤックなどさらっと読みやすい雑文集だ。
書評を書いたよ。
『アート・オブ・フリーダム』(恩田真砂美・訳)
ヴォイテク・クルティカといえば、おそらくどんな先鋭クライマーにとっても雲の上の存在である。
じゃあ、一般的な登山者が読んだところでぜんぜん参考にならねえじゃん。
ところがクルティカは哲学者でもある。
この本にはハードな登山やクライミングに縁がうすい人たちにとっても、人生訓になるようなコトバがたくさん散りばめられている。
一昨日読み終えた本。
『ザ・プッシュ ヨセミテ エル・キャピタンに懸けたクライマーの軌跡』(トミー・コードウェル著、堀内瑛司・訳)
高差1000メートルちかい、傾斜が強く、ホールドがほとんどないエル・キャピタンのルート――ドーン・ウォール――をオールフリーで登ったクライマーの自伝。
エル・キャピタンだのドーン・ウォールだのオールフリーだのいうても、一部のクライマーを除けばやはりピンとこないだろう。
強いて噛み砕いて例えるなら、世界で数指に入る宮大工の職人技とでもいったらいいのだろうか。
度を過ぎたスゴさは、一般大衆にとってかえってぼやけてしまう。
まあ一般大衆がピンとくるのは、ほどほどにスゴいとこまでともいえる(笑)
この本のあらすじも解説も感想もすでに何人かのクライマーがSNSに載せているし、山岳雑誌にもすばらしい書評が掲載されとるから、ここでは割愛する。
先週くらいに読み終えた本。
『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』(三浦英之著)
アフリカゾウが絶滅に追い込まれている。
そう聞いてもたいていの人たちは、日本から遠いアフリカのできごとじゃないかと聞き流すだろう。
自分でも、関係ねえ、動物学者が対処すればいい、くらいにしか思わなかった。
この本は、アフリカゾウの密猟とその背景を追ったルポ。
密猟の目的は、象牙だ。
アフリカでは金さえ積めば罪は罪でなくなる。
輸出には中国人マフィアが絡んでいる。
このあたりまではなんとなく予測がついた。
読みすすめるうちにわかったのは、日本が象牙の消費国だということ。
日本に暮らしていてアフリカゾウなんて無縁でも、象牙の印鑑といえば誰もが比較的身近なものだろう。
そもそも日本が象牙の印鑑を高級品としてもてはやさなければ、中国人マフィアもビジネスにはならないし、アフリカゾウもここまで激減することもなかった。
という話である。
そんなの遠く離れた場所で起きてることじゃないか。そんなことより足元をちゃんと見ろよ。
そうよく言われたりする。
遠く離れた場所でのできごとだと思い込んでいてじつは自分でもその問題に加担しとるのに気づいてないだけだったことが、もしかしたらほかにもたくさんあるのかもしれない。
記事を書いた。
「ひとりで歩く山7選」
包容力にも似た山のやさしさとつねに死のリスクを内包している山のシビアさ。
そうした山への思いを立山周辺に点在するボルダー散策に絡めて書いてみたよ。
↑なんだかよくわからないでしょ(笑)
◆
詳細はこちら。
↓クリックすれば読めちゃう(笑)
https://www.gakujin.jp/menu105/
『アート・オブ・フリーダム 稀代のクライマー、ヴォイテク・クルティカの登攀と人生』(恩田真砂美・訳)
クルティカといえば、、、
チャンガバン南壁、ダウラギリ東壁、ガッシャブルム4峰西壁、トランゴ・タワー東壁、チョ・オユー南西壁、シシャパンマ南西壁、フリークライミング5.13のフリーソロ、、、
数々の世界最難ともいえる登攀を成功させていながらも、こんな言葉を残している。
「実は自分は弱かったのです」(1995年ナンガ・パルバットのマゼノ・リッジの試登にて)
いったいどれだけ高い意識やねん。
ほかの登山者やクライマーはどうなっちまうんやねん。
クルティカの行為は登山というよりも哲学といったほうがしっくりくる。
たとえ誰からも称賛されなくても、自身の哲学にもとづいて「苦しみの芸術」を追求する。
クルティカの軌跡をみると「完成」という言葉すら陳腐におもえてくる。
ところでクルティカとは対極の大衆を意識した伝えることを前提にした登山や冒険には価値がないのだろうか。
そんなことはない。
そもそもクルティカの求道者的な行為と大衆を意識した伝えることを前提にした登山や冒険とでは役割がまるでちがう。
物理学を例にするならば、研究に没頭する学者と人気の予備校講師みたいなもの。
ともに必要とする人たちがいる。
だいたい世の中がクルティカみたいな人ばかりになってしまったら社会が成り立たなくなるぜよ(笑)
誰もがクルティカのような高貴な登攀をめざす必要もないし、めざしたところでその人が納得できる登攀や人生が送れるとも思えない。
どんな道にすすむにしても周りがなんて言おうが事情に通じている人がなんて言おうが頭脳明晰な人がなんて言おうが、自分を貫けばいい。
クルティカの生きざまを通してそんなことをおもった。