前に読んだミャンマー北部の山岳民族の村に長期滞在したジャーナリストのルポでこんなことを思い出した。
もともと閉鎖的なミャンマーのなかでもさらに閉鎖的な山岳民族のエリア。
村の人たちは日本もアメリカも知らず、彼らの世界観はその村およびその周辺で閉じられている。
世界観がそこで閉じられた人たちには、いくら時間をかけて優しく噛み砕いて話したところで通じることはない。
最近山とかで会う人たちにもおなじことを感じたりする。
話がまるで通じない感がすごいのだ。
山の雑誌は毎月欠かさずに熟読してます。なんちゃら登山講習会で習ったことはきちんとテープにとってかならず復習しています。
事実を見ることよりも活字をはじめとした情報に重きを置く人たち。
情報というのはしばしば事実からかけ離れていたりする、といった話がまず通じない(笑)
活字をはじめとした情報に重きを置く人たちの世界観は、やはりそこで閉じられてしまっているのだろう。
理論派が良いとか感覚派が良くないとか、途上国が良いとか先進国が良くないとか、どちらがどうこうといった話ではない。
コミュニティにしろ社会にしろ、どっぷりとつかるほど世界観は閉じられてしまうのだろう。
溶け込むことによって、見えにくくなってしまうものがある。
きっと誰もがその人のなかでその人の世界観というものによって閉じられているのだろう。
苛立ちを抱えてはじめて気づくことってたくさんある。
先日の雪崩の顛末記、さめないうちに書いてみた。
雪崩に流されてからはや4週間になるけれど、書いたのは2週間ほど前だよ。
こういう時期というかタイミングにどうかとの意見もあるかもね。
でも登山も冒険も何時だって誰だって大なり小なりリスクを渡っているもの。
夏山の一般登山道だって、事故るときは事故る死ぬときは死ぬ。
たまたま自分や自分の身近で事故が起きないから自覚がうすいだけ。
そんなにリスクが嫌なら登山や冒険などとっととやめちまえ!このマニュアル・バカども!!、とまでは表現してないけど。
まあそんな意味もあって書いてみた。
書評を書いた。
『洞窟ばか』(吉田勝次著)
洞窟といえば陰鬱な印象が強いけれど、この本は著者の豪放磊落(たぶん?)なキャラともあいまってとにかく明るい。
じっさいに洞窟に行くのはちょっとと躊躇する人でも、この本は読み物として楽しめるとおもう。