きょう読んだ本。
『極夜行前』(角幡唯介著)
昨年ほぼ同時期に刊行された『極夜行』が本番だとすれば、この本は準備編である。
・2012年11月下旬~13年1月(2カ月)、カナダ北極圏ケンブリッジベイ周辺。
・2014年1月上旬~3月下旬(3カ月)、グリーンランド北極圏シオラパルク周辺。
・2015年3月下旬~10月下旬(7カ月)、グリーンランド北極圏シオラパルク周辺。
これら準備編の旅は出だしから装備の不備やら何やらで、終始歯車が噛み合っていない。
いわゆる出だしこそトラブルつづきだけれどやがて起動に乗って最後は目的地にめでたくゴールするというよくあるパターンとはぜんぜんちがう。
この著者の冒険における実力はいまさら語るまでもなくそろなりに経験を積んでいるけれど、やろうとしていることがあまりにも壮大過ぎてあまりにも前代未聞過ぎる。
こりゃ本番もダメかもしれないとも思えてしまう。
さてこの著者の目的地はあくまでも目安みたいなもの。
極寒で真っ暗闇な厳冬の北極圏における極夜という自然を深く体験することが本命である。
そういったニュアンスのことはこの本に書いてある。
それにしても、この著者をここまで駆り立てたものはいったい何なのだろう。
ここから先は推測になる。
社会的(対外的?)なものはさほど求めていないのではないか。
めざしたのは自分の旅だけ。
何もめざしていないと言えなくもない。
辿ったところには雪原があるだけ。
自然と自分と向き合うこと以外に何もない。
ただ雪原を移動してただ雪原に滞在して。
それがすべてであった。
なぜそんなふうに思えたのか。
自分がここ10年ほどやっている旅がそうだったからである。
一見すると理解不能ともいわれかねない、そんな旅こそがすくなくとも自分にとってはおもしろかったのだ。
植村直己が厳冬マッキンリーに消えてから35年になる。
(1984年2月12日に単独登頂に成功したのち行方不明)
遭難の原因はいまだに定かでない。
さまざまな憶測が飛び交う。
ノンフィクション作家の角幡唯介は、年齢的な焦りではないかと推測する。
植村直己が亡くなった43歳という年齢は、説明するまでもないが体力は低下しはじめる。
これまでに数々の業績を残してきたけれど、それでもやりたいことやできていないことはまだまだある。
そうした焦りがあるからこそ、身体を動かしていないと不安になったのではないかと。
植村直己の亡くなった43歳を10年越えて53歳の自分も、スケールこそちがえどいまかぎりなく似た心境になっている。
自分の身体の故障がどんどん増えてゆく。
こんなはずじゃなかったのに。
山に入る度にそう痛感する。
だからといってどうすることもできない。
激しく行動しているときだけ一時的に年齢的な焦りから解放される。
身体を動かしていないとさらに不安になる。
悪循環のはじまりであることはわかっていながら、やめることはできない。
※なお角幡唯介のコメントは、ビーパルの記事を参照
目標があると、それなりに高いところに到達できる。
目標なんて枷などないほうが、もっと上まで行けてしまうこともある。