厳冬の津軽の山の記事を書いたよ。
爆弾低気圧の襲来にあわせての入山、4年前より10回以上トライしたけれど全滅だった。
それでも1つの節目はついたかなという気分にはなっている。
そもそも完成なんて永遠にあり得ない。
角幡唯介、佐藤裕介、大西良治といった自分にとっては雲の上どころか天に近いような存在のクライマーたちに混じって紹介されとるけど、自分の冒険論はそれなりに綴れたかなと思う。
詳細はこちらだよ。
http://www.gakujin.jp/menu105/
2016.10.21 10:50 [
山 戯言 旅]
秋晴れの下ノ廊下を歩きながらこんなことを思った。
*
それにしてもよくこんなところに道を拓いたものだなぁ。
当時の職人さんたちの苦労が、ちょっと想像がつかない。
(水平歩道のむこうに見える奥鐘山西壁はオマエ登ってみろといわれれば登れちゃう(実際10回くらい登ったからね)けれど、じゃあオマエ水平歩道を作れといわれたらまったくお手上げだ)
もしかしたらというか当然というか、、、
ほんとうに現場でがんばっている人やほんとうに苦労した人って、多くを語ることもなくそして歴史のなかで名前も残ることもないんだろうな。
机上の歴史と現場の歴史の溝、それは黒部峡谷のように深い。
2016.10.21 09:33 [
山 戯言 旅]
9月下旬から10月上旬の半月ちかく、東北の山をまわってきた。
思ったよりも歩けたかな。
危惧していたほどヒザも腰も悪化しなかった。
傍から見たらどうでもいいような身体のわずかな変化に一喜一憂しているだけかもしれないけれど、故障持ちにとって体調がさして悪くないのはやはりそれなりに嬉しい。
さて東北の山は山そのものももちろん良いけれど、地味だけれど落ち着きのある山麓をふくめて山をとりまくぜんたいが魅力的に感じる。
何度訪れても良いところだなぁ。
おなじ場所にいても、人によって目に入ってくるものってちがう。
自分の場合、十代から二十代前半にかけては、山に行っても岩壁しか見えなかった。
そこに行くまでの途中の景色も山頂からの眺めも、いっさい記憶にない。
二十代半ばからしばらく二十年以上は、山からかんぜんに離れた。
ふり返ることもなかった。
ここ数年は、山に行くとこれまで気づかなかったいろいろな自然の変化が目にとまるようになってきた。
また何年かしたら、きっと変わるだろう。
そのとき目にとまったものには一歩近づいてみる。
目に入らなかったものは無理してさがさない。
まわりで話題になっているとかメディアが勧めているとかではなく、そのときそのときで自分が目にとまったものを眺めていけばいい。
そのときその人の目に入ったものが、その人が求めているもの。
きのうのトークイベント「日本の山旅」のようなものでは、こんなことを言いたかった。
*
日本の山や自然は、海外にはない繊細さが見られる。
海外の山や自然には、日本にはない雄大なスケールが見られる。
どちらが魅力的かということではない。
そのとき行動者の心の琴線に触れたものが、行動者にとって最高の舞台(テーマ?)になるのだと思う。