先日の雪崩の顛末記、さめないうちに書いてみた。
雪崩に流されてからはや4週間になるけれど、書いたのは2週間ほど前だよ。
こういう時期というかタイミングにどうかとの意見もあるかもね。
でも登山も冒険も何時だって誰だって大なり小なりリスクを渡っているもの。
夏山の一般登山道だって、事故るときは事故る死ぬときは死ぬ。
たまたま自分や自分の身近で事故が起きないから自覚がうすいだけ。
そんなにリスクが嫌なら登山や冒険などとっととやめちまえ!このマニュアル・バカども!!、とまでは表現してないけど。
まあそんな意味もあって書いてみた。
2017.4.13 10:52 [
山 戯言 津軽]
冬の終りの津軽の山に行ってきた。
3月中旬の雪崩の後遺症が残っていること、ヒザや腰など体調面が非常によくないこと。
結果的に当初の予定の10分の1くらいの結果となった。
それでもなんだかんだで行ってよかった。
そこに行かないと感じられない空気、そこに行かないと見られない光景、たくさん出会えたから。
先日、北東北の山で雪崩に遭った。
気がついたら自分の身体もまわりの雪と一緒にスローモーションで流されはじめている。
大型冷蔵庫くらいの大きさの割れた雪片に身体が押されはじめて苦しくなった。
このままでいたらヤバイ。ようやく自分が雪崩に巻き込まれているなと気づいた。
40~50メートルくらい流されて身体は止まった。
身体がだいじょうぶなのを確認すると、なにも考えることなく降りはじめていた。
強い人は雪崩をくらってもそのまま登っちゃう。
いや、ほんとうに強い人は若いときに天まで昇っちゃう。
今朝のときに胸まで潜る湿雪のラッセルに自分ではめずらしくしんどいなあと独り言をいっていたのは、もしかしたら虫の知らせだったのだろうか。
あのまま流されていたら沢をそのまま数百メートル滑落していた。
正しい判断なんて、いつだって行動しない人あるいは終わった人の机上の空論にすぎねえ。
正しい判断ばかり求めるくらいなら、はじめっから山など行かないことだ。
そんなことを日記にずらずらと書き綴った。
今回途中で止まったのは、もしかしたら自分にはまだまだやり残したことがあるという神からの導きだったのだろうか。

厳冬の津軽の山の記事を書いたよ。
爆弾低気圧の襲来にあわせての入山、4年前より10回以上トライしたけれど全滅だった。
それでも1つの節目はついたかなという気分にはなっている。
そもそも完成なんて永遠にあり得ない。
角幡唯介、佐藤裕介、大西良治といった自分にとっては雲の上どころか天に近いような存在のクライマーたちに混じって紹介されとるけど、自分の冒険論はそれなりに綴れたかなと思う。
詳細はこちらだよ。
http://www.gakujin.jp/menu105/

昨夜読んだ本。
(十代のときに何度も読み返した。たぶん30年ぶりくらいの再読)
『十六の墓標 炎と死の青春』(永田洋子著)
極左テロリストの獄中手記。
革命という理想のために銀行強盗、猟銃強奪、そして同志殺害。
その是非はともかく、、、
すごい潔く行動しちゃうんだなというのが、いちばんはじめに読んだときの感想だった。
自分が十代というオトナ(口先だけで実行しない人種)がもっとも信用できない年代だったからだろうか。
だってたいていの人たちは飲んだ席では理想を掲げて熱く語っても、いざ実行となるとできない理由を並べているだけだったから。
物事に真剣に取り組んだら最後は精神が破綻するか人を殺めるか自死するかになっちゃうのかなとも思った。
自分にはそこまでできないな、とも思った。
そして十代のときの読後感は、30年経ったいまもあまり変わってなかった。
ちなみに自分は革命を支持しているわけでも人殺しを肯定しているわけでもこの著者の行動が正しいといっているわけでもない。
あくまでも妥協を許さない姿勢においてスゴイなという意味だ。