前に読んだミャンマー北部の山岳民族の村に長期滞在したジャーナリストのルポでこんなことを思い出した。 もともと閉鎖的なミャンマーのなかでもさらに閉鎖的な山岳民族のエリア。 村の人たちは日本もアメリカも知らず、彼らの世界観はその村およびその周辺で閉じられている。 世界観がそこで閉じられた人たちには、いくら時間をかけて優しく噛み砕いて話したところで通じることはない。 最近山とかで会う人たちにもおなじことを感じたりする。 話がまるで通じない感がすごいのだ。 山の雑誌は毎月欠かさずに熟読してます。なんちゃら登山講習会で習ったことはきちんとテープにとってかならず復習しています。 事実を見ることよりも活字をはじめとした情報に重きを置く人たち。 情報というのはしばしば事実からかけ離れていたりする、といった話がまず通じない(笑) 活字をはじめとした情報に重きを置く人たちの世界観は、やはりそこで閉じられてしまっているのだろう。 理論派が良いとか感覚派が良くないとか、途上国が良いとか先進国が良くないとか、どちらがどうこうといった話ではない。 コミュニティにしろ社会にしろ、どっぷりとつかるほど世界観は閉じられてしまうのだろう。 溶け込むことによって、見えにくくなってしまうものがある。 きっと誰もがその人のなかでその人の世界観というものによって閉じられているのだろう。 苛立ちを抱えてはじめて気づくことってたくさんある。