
『果てしなき山稜』(志水哲也著)が文庫本になった。
襟裳岬から日高山脈、十勝・大雪山系、北見山地そして宗谷岬へ、距離700キロ、期間半年。
厳冬の北海道を舞台にした山スキーによる単独踏破の紀行。
このなかのピークのどれか1つでも厳冬に立ってみればわかるけど、猛烈なラッセル、ホワイトアウト、雪庇踏み抜きによる墜落などどれもあまりにもリスクが高い。
(ピーク1つに立つだけでもじゅうぶんにたいへん)
はやい話がいつ死んでもおかしくない。
この山行が成されたのはすでに20年前だが、公に発表されたものや風の噂をふくめてもまだ追従する者は出てきていないようだ。
アスリートとしてのレベルが格段に上がってきて、山の天気や雪質の情報の質も格段に進歩しても、それに続く記録がないということは、科学による力では解決できない要素があまりにも多いということだ。
さて、この本で感動するのは、客観的な難度云々よりも物事に真摯に取り組む姿勢であろう。
とにかく目標を設定したら後先のことなどぐだぐだ考えずに、惚れ込んだルートに全身全霊であたる。
そして目標達成と同時に虚無感にも似た思いにつつまれているようにすら感じる。
最後はまっ白に燃え尽きる、明日のジョーみたいだ。
でもたとえ虚無感しか残らなかったとしても、情熱を完全燃焼させるという経験はそうそうできるものではないだろう。
縦走モノといえば単純作業のくり返しで、時間を費やしてコツコツ努力すれば誰にでもできると思われがちだ。
たしかに当たらずしも遠からず。
クライミングにくらべると先天的なセンスを問われる部分はすくない。
しかし目標に対してなりふりかまわずに情熱を傾けられるというのは、その生き方をふくめてある種の先天的な才能にすら思える。

きのう読んだ本。
『歩き旅ふみの徒歩世界旅行2』(児玉文暁著)
オーストラリア大陸とニュージーランドをそれぞれ3000キロ、8カ月。
だから合計6000キロ、16カ月におよぶ徒歩縦断の旅日記。
肩肘張らない旅だ。
ゴールめざしてあくせくといった気負いがまるでない。
かといって不自然な自然体をポーズにするバックパッカーのように、易きへ低きへと流れ、気がついたら溺れていたなんてわけではもちろんない。
自分のペースはきちんと守り、やがてはゴールする。
この著者は、アラフィフだけど現在進行形で旅をつづけている。
たいていの人たちは若いときこそ元気でもやがて萎えてゆく。
アラフィフになれば、それぞれ自身の定めた第一線からは退いて守りに入る。
地に足が着くとも終わるとも。
やらないための言い訳がうまくなり、若いころの自慢話に生き甲斐を見いだしはじめる。
周囲も守りに入ってゆく後ろ姿を黙って受け入れはじめる。
あれだけやったんだからもうじゅうぶんでしょう、と。
アラフィフで自身の定めた第一線で活動する人は、ガクッと減る。
この著者の飽くなき歩き旅は、これからもつづくだろう。
細く長く。
言葉にすればかんたんだけれど、なんだかすごく奥が深そうだ。
この著者は、いまカナダ横断歩き旅を計画している。

きのう読んだ本。
『アルパインクライミング考』(横山勝丘著)
予想どおりだけれどレベルが高い、高すぎる。
「オメーがやってるのなんて登山でもクライミングでもなんでもねえ! そのレベルでやりましたなんて、思い込みもそこまで激しくなるとオシメーだぜ!!」
頁をめくるごとに、そういわれているような気さえする。
じっさいこの著者と同じことができる人は、日本でも数えるほど。
ではこの本は先鋭クライミングをめざす人にしか役に立たないのかというと、もちろんそんなことはないと思う。
たしかに登場するのはアラスカ、ヒマラヤ、ヨセミテ、パタゴニアと困難な岩壁や氷壁のオンパレード。
あるていどの体力とあるていどの技術とあるていどの判断力さえあればできるような、一般ルートから歩いて登れる山はひとつもない。
ところがこの著者の登山(クライミング)に対する考え方向き合い方は、ときに斬新でなかなかおもしろい。
(まあ斬新だからこそ最先端のことやってるいるのだけど。)
すくなくともいまの自分の行動に還元できそうなことが、大きく3つほどあった。
まずこの著者は、精神主義に陥らず論理的である。
正しくは強靭な体力と精神力の上に論理的な思考を重ねている。
(机上講習などでは話上手だけど山に入るとクソの役にも立たないなんちゃって講師とちがって、実践者として説得力がぜんぜんちがう)
たとえば登山などで失敗したさいに、やる気がなかった気合いが入ってなかったの一言で片づけてしまい、もっとほかにあったであろう失敗の原因をうやむやにするケースはよくある。
(何よりもオイラが毎回そうだもんね(笑))
根性がなかった体力がなかったといっていても、じつはいちばんの敗退原因は技術不足や装備の選択ミステだったみたいな。
確実な技術があれば、体力だって精神力だってムダに消耗することはない。
もちろん失敗の原因はそう単純明快ではないだろうけれど、それでも丹念に分析してゆくことはだいじだ。
この著者は敗退を重ねるごとに、次なるチャンスへと繋げてゆく。
失敗のなかにこそ成功のカギがある。
つぎに、これまでの固定概念をいたるところで打ち破っている。
たとえば弱点ではなくて強点。
訊き慣れない言葉で、これだけだと???かな。
その山なりその岩壁なりのもっとも登りやすいところを選ぶのではなく、もっとも厳しいとおもわれるところを登る。
あえて厳しいほうを選ぶとは、つまりやり甲斐、登り甲斐である。
守りから攻めへ。
この発想の転換によって、かぎられている空間において可能性の幅が一気にひろがる。
課題とはさがすのではなく創りだすものではないだろうか。
白いキャンバスにのびのびと絵を描くような芸術作品にも似ているのかもしれない。
そして最後に、世界の厳しい山を知るこの著者があらためて日本の冬山の難しさ説いている。
スケールというひとつの基準だけで海外の山と比較すれば、どうしたって日本の山はちいさい。
ところが日本の山には雪質の悪さやときに絶悪ともいわれる気象条件の悪さなど、海外の山とは比較にならないような独特の厳しさがある。
そういえば猛吹雪の日に突っ込むのも世界的に見ても日本のクライマーだけのようだ。
それもごくかぎられた一部の物好きたち(笑)
日本の山だって、まだまだ課題はいくらでも創りだせるということだ。
以上のような視点で、この本を読んでみた。
まともにクライミングやってるともまともに雪山やってるともまともに何かに取り組んでいるともとてもではないけど言えないようなオイラだけど、それでもこの本のなかにはこれからの自分の行動に還元できそうなヒントがたくさん隠されていた。
いや、それにしてもこの著者もその同行者もレベルが高い。高すぎる。
やはり自分なりにせいいっぱいやりましたなんていう言葉も、ちゃんと選んでつかわないと、な。

昨夜読んだ(4年ぶりの再読)本。
『冒険の蟲たち』(溝渕三郎、與田守孝、長篠哲生著)
1976年、クルマに登山用具一式を乗せて北から南へ。
10カ月間におよぶ南北アメリカ縦断登山の記録。
カスケード山脈のスキー登山、ヨセミテでのクライミング、アンデスの氷壁登攀やスキー滑降、そしてアマゾン川源流部でカヌー下り。
何というジャンルなんだろうと頭をかしげたくなるほど、さまざまな冒険を織り交ぜて登山の幅をひろげた。
より良いスタイルに執着しすぎるあまり、何々でなければならないといった教条主義的なルールを自身に果たすことがない。
昨今の登山や冒険モノにありがちな、いかにも自己弁護的な小難しい説明(ときにうまく言いくるめているだけだったり)がないのがこれまたいい。 およそ見えない枠といったものがかんじられない。
雄大な自然を目の前に地図や資料を目の前に、好奇心のおもむくままにただ登りたいからただ滑りたいからただ漕ぎたいからそれをやる。
単純明快だね。
*
じつは20年前にはじめて冬のカナダへいったとき、彼らのこの旅をどこかで意識していた。
(単行本として発刊されたのは2009年だけど、山岳雑誌においてこの記録は何度か掲載されていた)
やっていることはもちろんスポーツだけど、心は何物にも束縛されない自由な旅。
そして20年経って冬のカナダが一段落して、新たなる舞台へと移行しつつある今でもこうした自由な発想というものが自分の根底にあるのだと思う。
パイオニアワークだの冒険論だの価値がどうだの、そんなの関係ねえ。
(まあその割には自分でもしょっちゅう冒険論を展開しとるけど(笑))
ただやりたいことこそが、その人にとって最高のスタイルなのだ。

きのう読んだ(読み終えた)本。
『外道クライマー』(宮城公博著)
登山や冒険モノの本(雑誌の記事でも)が出たとき、読み手はだいたい大きくわけて2つの陰口をたたくようだ。
「やっていることは独創的だし技術的な難易度は高い。そうかんたんにマネできない。でも文章は淡々としてネタも地味ではっきりいっておもろくねえ!」
(先鋭的なクライミングに多いかな。ぜんぶがぜんぶじゃないけど)
「めりはりのあるわかりやすい文章とドラマチックな構成から成り感動的だ。でも、やっていることはあるていどの休暇と予算があれば誰でもできるじゃん!!」
(自転車旅とかに多いかな。こちらもぜんぶがぜんぶじゃないけど)
表現も行動もともにというのはやはりなかなかにむずかしいようだ。
でもこの本は、行動も表現もともにイケる。
なによりもネタからして斬新だ。
立ち入り禁止の滝を登って逮捕されたり、密林の沢では大蛇と格闘したり。
あるいはタイの歓楽街で現地の女の子にハマった50歳ちかいエロ・オヤジをそそのかして、厳冬の立山の雪崩の巣に突っ込んでみたり。
タイのエロ・オヤジはべつとして、なんだか子供のころにイメージしていた探検物語の世界のようだ。
そして舞台は海外へも。
台湾、ミャンマー、タイなどアジア旅ではすっかりおなじみの国だが、この本では沢登りの舞台として登場する。
沢登りは日本独自の登山っていったのは誰だとツッコミたくなるけど、要はこれまで見過ごされてきたエリアにおいて新たなる沢登りのスタイルを見いだし実践している。
展開しているのは沢登りだけにとどまらない。
厳冬の立山の称名滝やハンノ木滝において、日本国内でもっともロシアンルーレット度の高い(3回トライしたら1回くらいは死んじゃうかなというくらい)クライミングも行っている。
ほかの人たちが課題はなくなった地球はせまくなったあんなのは自殺しにゆくようなもんだと酒飲んではチャレンジしない理由をぐだぐだ語っているあいだに、この著者は地図や資料を丹念に調べて可能性を見出してゆく。
だからこの本を読んでいると地球がどんどんひろくなってゆく。
可能性の幅もどんどんひろがってゆく気分になる。
マジで日本国内だけでもまだまだあらゆる可能性があるじゃん。
そう思えてくる。
山屋や沢屋にありがちな、堅苦しさ暗さ重苦しさがない。
状況は陰惨きわまりないはずなのに、どこかマンガチックで軽快に綴っている。
だからすらすら読めてしまう。
この勢いで、2冊目も出してほしいね。

きのう読んだ(読み終えた)本。
『アローン・オン・ザ・ウォール』(アレックス・オノルド著)
究極のフリーソロ(ロープなしで登る。堕ちたら死ぬ)クライマーの軌跡。
読めば読むほど、凹むし激しい劣等感につつまれる。
だってこの著者のやってること、どう考えてもマネできない。
反復練習をくり返してコツコツやれば、大器晩成という言葉があるという人もいるかもしれない。
でもそういっている人って、時間とお金さえかければ誰でも到達可能な狭い世界しか知らなかったりする。
他人は他人、自分は自分、っていう人もいるかもしれない。
でもそういっている人って、自分のまわりに突出した優秀な人が居らず毒にも薬にもならない輩に囲まれているだけだったりする。
「オメーがやってんのなんか、クライミングでも何でもねえ。そんなの岩に触れたうちにも入らねえ! すこしは頭を冷やせ!!」
ページをめくるごとに、自分がそう罵倒されてるようだ。
仕方ないよな。
柔軟性をはじめとした身体能力、恐怖の克服の仕方、まわりが何といおうが突き進めるモチベーション、、、
どれをとっても、自分がやってることなんてしょせんはそのていどにすぎないのだから。
自分にはクライミングの才能が皆無だと二十歳のころに悟ったけど、この本を読んであらためて才能のなさが決定的なものになった。
まあ人生において「気づき」はたいせつだ。
自分には手が届かないと現実を受け入れることによって、こんどはちがう可能性の扉がひらくということだってあるのだからね。
ただ、、、
過ぎてしまった過去に対して、もし何々だったらできたかもしれない、というのはあり得ないことだし言ってもいけないことである。
それでもあえて問うてみたい。
もしクライミングの才能のなさに気づくのにもうすこし遅かったら、もしかしたら行動半径ももうすこしひろがっていたような気がする。
気づかないというのも、ある種の才能なのかな、、、