昨夜一気に読んだ本。
『41人の嵐 台風10号と両俣小屋全登山者生還の一記録』(桂木優著)
メモしたこと以下。
・危機に瀕したさいの解決策に正解はない。
→自分としては、直感的にいちばんはじめに頭に思い浮かんだことを重視している。
・危機に瀕したさいに問われるものって、いったい何なのだろう。
→はたして経験は生きるのか。あるいは経験は邪魔になるのか。
・主人公の小屋番はもちろんだけれど、学生たちもかなりしっかりしている。
→体育会系の良き面、チームワーク。
もし仮に自分が小屋番だったら、あるいは学生のひとりだったとしたら、もしかしたら全滅に導いていたのか、それとももっと効率よく撤退できたのか。
あれこれシミュレーションしてみると、自身の短所がみえてきたりする。
昨夜は、本の紹介(「二十歳の原点」(高野悦子著))のミニ・イベント。
うまく話せたかどうかはわからない。来てくれた人たちを楽しませることができたかどうかはわからない。
ただ自身のなかで悶々としていた十代のころのことが、すこしずつ整理されてきたのはたしかだ。
生まれてきたからには、何か大きなことをやりたい。でも踏み込む勇気がない。だって山では失敗したらすぐに死んじゃう。でもやっぱり今のままじゃダメだ。
そういう思いを毎日のようにくり返してきた、自分の十代のころ。
あのころはただ出口をさがしていた。
山での事故死のニュースを聞くたびに考えさせられる。
死の領域まで踏み込めず、半世紀以上ものうのうと生きてしまったオイラの行動や言葉に、果たして何の意味があるのだろう。
いや、そうした微妙な立ち位置(視座?)から発する声だからこそ意味も生まれるのではないか。
志半ばに果てたアルピニストに合掌。
やっぱり若いときにやってみたかったことを無理してでもやってよかったのかな。
あるいは夢は夢のまま残しておいたほうが、もしかしたら頭のなかでイメージできる世界はもっと自由で大きくなっていたのだろうか。
選択しなかったほうの道って、どうしても都合よく考えてしまったりする(笑)
岩登りがつまらなくなった理由のひとつに限定があった。
あれ使ったらダメ、これ使ってもダメ。
モラルというよりもコミュニティによる凝り固まり。
自転車旅のコミュニティでも。
冬はダメです、雪のなかはダメです、真夏の砂漠もダメです。
だからスキーをはじめるときは、コミュニティから距離を置いた。
滑る自信がなければ担いで降りればいい。だいじょうびそうなら岩場でも滑ればいい。
骨折したら這って降りればいい。
ようやく自由になれた。なによりも楽しかった。
そこで終えれば、まるく収まる。
オイラの欠点は、あるていど成果が出るとまた凝り固まったコミュニティにちかづいて結果発表して、言わなくてもいいことまでいってしまうことだ(笑)