冬の剱岳北方稜線の登攀史をすこし書いた。
「ROCK & SNOW」(87号)
埋もれはじめている登攀史がたくさんあるけれど、なんらかの機会に小出しでもいいからすこしずつ紹介していきたい。
いつの時代も目立つ記録と内容の濃い記録とのあいだには深い溝がみられる。
書評を書いたよ。
『アート・オブ・フリーダム』(恩田真砂美・訳)
ヴォイテク・クルティカといえば、おそらくどんな先鋭クライマーにとっても雲の上の存在である。
じゃあ、一般的な登山者が読んだところでぜんぜん参考にならねえじゃん。
ところがクルティカは哲学者でもある。
この本にはハードな登山やクライミングに縁がうすい人たちにとっても、人生訓になるようなコトバがたくさん散りばめられている。
映画評を書いた。
『残された者 ―北の極地―』
いわゆる遭難もの。
映画はぜんぜん観ないし、映画のことはさっぱりわからない。
映画評も読んだことがない。
でも長期間にわたって隔絶された場所を歩いたことは何度もある。
通信機器を持たずに隔絶された場所で、骨折したり酷い凍傷は何度もある。
自分がほんとうに追いつめられたとき、どう対処すればいいのか。
どうにもならなくなったときに最後のさいごは、潔く自死するしかないのだろうか。
理不尽の集合帯のような状況下で、果たして正解を見いだすことができるのだろうか。
そもそも正解など存在するのだろうか。
今回の映画評を通してこれまで頭のなかでもやもやしていたことが、いろいろと整理できた気がする。
11月8日金曜日に公開。
http://www.arctic-movie.jp/
『フリーソロ』の映画評のようなものを書いた。
文章のさいごのほう、反論がくるかな(笑)
でも現場で何度も見た事実。
自分はプロのライターでもないから必要以上に自分と読者のバランスを考える必要もない。
それにしても、「田中幹也のちくり一言」ってタイトル、、、(笑)(笑)
フリーソロやる人って、すくなくとも自分が知ってるかぎりではみなたしかな技術的な裏付けがあるうえでやっている。
矛盾するようだけど、リスクが高いからこそ可能なかぎりリスクを軽減すべく、あらゆるシミュレーションをする。
もちろん事前の身体的な精神的なトレーニングもする。
もしここでミスってもこう対処すればリカバリーできる。
そういった引き出しを何十通り何百通りともっている。
技術面も精神面も一般大衆にくらべたら格段に高すぎるのはもちろんだが、最大のちがいはシミュレーションの部分じゃないかな。
ただそういった部分はなかなか見えにくいから、はたから見るとぶっ飛んでるの一言でかたづけられてしまったりする。
この映画の主演のアレックス・オノルドもエルキャピタンのフリーソロに挑むにおいてじつに緻密に調べて予習する。
1000メートルちかい岩壁のなかで手の位置や足の位置や身体の動きまで。
マニアックといわれようがそれくらいしないと生きて帰れない。
ここまでの緻密さが、すくなくとも現段階で生存していることに繋がっているのではないだろうか。
話が飛ぶけれど、先鋭クライマーのフリーソロよりも剱岳や槍ヶ岳の鎖場やハシゴとかでパニクっとるヘタレ登山者のほうが、見ていてよほどハラハラドキドキする。
身体が固くて筋力弱いくせに、あり得ないムーブしたりすっから。
事故ってあたりめーじゃん。
オメーらこそ自殺行為だよ。
山行く前から怖い怖い連発するなら、どうして事前にできるかぎりの対策をとらないのだろう。
すみません、この映画の狙いとぜんぜんちがうことばかりだけれど、映画を観終えて最初に思ったことを書きなぐってみた。
伊藤正一写真展「源流の記憶 黒部の山賊と開拓時代」に行ってきたよ。
それにしてもすさまじい歩荷力。
どうみても100キロはありそうだし、バランスはめっちゃ悪そう。
登山道だって今みたいに整備されてないし、装備だって今みたいにしっかりしてない。
今の時代に換算したら果たしてどのくらいのことになるのだろうか。
こういうのをみてしまうと、わたしはザックを担いで山を歩いたことあります、なんて言いづらくなってしまう。
ザックが身体にフィットしませんとか濡れた丸太は滑って歩きにくいなんて言ってられねえぞ。
恐るべし先人たちの足跡。