【深谷明をなぜ選んだのか】
まず深谷明は今シリーズの他の人たちのように黒部横断30回、厳冬の沢登り、大学9年、千日回峰といった強烈さがない。海外の記録もなければ初登攀もない。では、ほかの人たちとどうちがうのか。以下のようにまとめてみた。
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二十一世紀にはいると長期・長距離縦走において斬新な記録はほとんどなくなった。このころ台頭してきた長距離の山岳レースの上位者は、山屋ではなく競技選手で占められる。夏は1日1アルプス、残雪季は立山〜上高地をワンデイ。
そうしたなかで目についたのが、深谷明の冬の連続縦走。2011年1月から3月にかけて歩いた、太平洋〜南アルプス主稜線〜八ヶ岳主稜線〜北アルプス主稜線〜日本海。距離およそ500km。街での休養は3、4日足らず。準備をふくめたら休養なしだ。2009年の冬は、奥羽山脈を26日間歩いた後3日間はさみ、南アルプス南部を13日間縦走。さらに下山して1週間後には、北アルプスに24日間入山している。果たして疲労が回復するのだろうか、あるいは志気は持続できるのか、といった疑問がわいてきた。
1975年3月から4月にかけて日高山脈全山縦走を行った細貝栄と工藤英一は、下山後に利尻島の登攀を計画していたが体力、志気の低下で中止している。また自分でも連続縦走を試みたことがある。冬のカナディアン・ロッキーを1カ月縦走したあと、1週間の休養をはさみセルカーク(カナディアン・ロッキーの西隣)山脈で2週間の縦走を計画した。でも下山後、身体はガリガリになり咳が止まらず、連続縦走は中止した(いちおう縦走最終日は山中でテント、シュラフ、ウエアをかんぜんに乾かす。下山した翌日の午前中にはバンフの街の高尾山クラスの山に登り、午後から図書館で調べものしたが、夕方から疲れがドッと出て完全に終った、、)。
冬の連続縦走が体力的にもモチベーション維持でも、いかに困難か。じっさいに試みた人があまりいないから、深谷明のスゴさを検証できる人もすくない。前々回の溝江朝臣の冬季の徒渉のように。何時間、何kg、何km、何°Cといった数値にはあらわれない難度がある。
もしかしたら深谷明は自身の長所に気づいていないのではないか。短所とちがって長所は自分もまわりも気づきにくい。1カ月ちかく冬山を歩いても、体力も志気も極端に低下しない。とはどこにも書いてないが、すぐにまた長期・長距離の縦走に出かけるのだからそういうことだろう。溝江朝臣も年間を通じて頻繁に山に入るが、それでも大きな山行を終えるとつぎの山行まで1カ月は空けている。
いずれにしても冬の連続の長期縦走は、ざっと調べたかぎりこれまでに例がない。二十一世紀になってはじめての記録ではあるまいか。気合で歩けるだろ、と飲んだ席で語る傍観者はいるけれど、実際にやった人は深谷明のほかにはいない。
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1、輝かしい長期縦走をはじめる(二十代前半)までがさらっとしか語られていない。
→あえて語るべきことがなかった期間が長いほど、その後により大がかりな計画の実践へと昇華されるのではないか。最近読んだほぼ同年代(深谷明とおなじ1972年生まれ)の別の人の手記を読んでもおなじことを感じた。自分にもあてはまる。ある写真家の言葉で、「雨音を聞きながら悶々と過ごす時間が納得のゆくシャッターチャンスをつくりだす」
2、他者が評価する山行と当事者が充足する山行とのあいだに、ときに大きなギャップが生ずる。
→他者の評価は得てして数値に還元しやすさとわかりやすさ。上越の地味な山域よりも南北アルプスを評価してしまいがち。
深谷明の手記を読むといちばん最後にやった冬の日本アルプス縦断からは、いまひとつ充足感が伝わってこない(推測に過ぎないけれど)。何故そんなことをおもうのかというと自分のなかでも同じことが何度もあったから。世界地図に踏破ルートを記して何々縦断や横断、あるいは何千キロ踏破などわかりやすいほど他者は反応する。でも自分のなかでは、悪条件から距離が稼げなかったときほど印象は深い。
ユーコン河カヌー下降やオーストラリア自転車横断などよりも、蒼氷に入る前にひとりで行った雨の日の谷川岳一ノ倉沢の超かんたんなルートのフリーソロのほうが充足感は遥かにあった。ほかにも同様の山行がいくつかある。誰からも反応されない山行でも当事者にとって深い意味をもつものもあるということ。
深谷明は厳冬季に何度かトライして敗退した上越の縦走のほうが挑戦の意味が大きかったのではないか(これまた推測に過ぎないけれど)。
昨夜のThe Tribeでのトークイベント「長期間&長距離 登山家列伝 第6回目 クルマやバイクの旅から冬の長期縦走へ 深谷明」だよ。
深谷明は、今回のシリーズのほかの人たちのようにピンとくるようなタイトルがつけられない。海外の記録もなければ岩壁の初登攀もない。
しかし長期縦走における体力とモチベーションの持続力が群れを抜いている。
数値で表現しきれない登山のなかに、ひとつの価値を見いだす作業は、やはりおもしろい。
ほかの人たちが見過ごしてしまいそうだからこそ自分がとりあげる。
台風の影響で大雨だったり交通機関の乱れがあったにもかかわらずそれなりに来てくれた。ありがとうございます。
【深谷明(ふかや あきら)|1972年(昭和47年)生まれ、埼玉県生まれ】
大学時代クルマによる旅をはじめる。卒業後バイクや徒歩で日本一周。そのとき立ち寄った屋久島で登山に開眼。以来、積雪季の長期縦走にハマる。
2005年3月(30日間)、奈良俣ダム~越後駒ガ岳~浅草岳~粟ガ岳。2008年1月~2月(39日間)、南アルプス・大無間山~光岳~塩見岳〜仙丈ヶ岳~甲斐駒ガ岳~鳳凰三山~北岳~農鳥岳~笊ガ岳。2009年1月(26日間)、奥羽山脈北部・真昼岳~和賀岳~秋田駒ガ岳~安比高原。2月~3月(24日間)、北アルプス・上高地~霞沢岳~燕岳~唐沢岳~烏帽子岳~黒部五郎岳~薬師岳~立山~剱沢~仙人ダム~五竜岳。
2011年1月~3月(68日間)、日本アルプス縦断・太平洋~八紘嶺~畑薙第一ダム~聖岳~悪沢岳~塩見岳~北岳~甲斐駒ガ岳~小淵沢~権現岳~赤岳~蓼科山~松本~蝶ガ岳~槍ガ岳~双六岳~赤牛岳~五色ガ原~立山~剱沢~欅平~白馬岳~日本海。
山岳会には属しているが主な長期縦走はもっぱら単独行。山では連日棒ラーメン。下界でも食に変化を求めず、単調かつ質素。
昨夜のThe Tribeでのトークイベント「長期間&長距離 登山家列伝 第5回目 風狂を尽くして 早稲田大学山岳部9年生、竹中昇」だよ。
今回のシリーズで竹中昇が、もっともなじみがうすいかもしれない。これまでの人たち――細貝栄、溝江朝臣、和田城志――は、山岳雑誌にインタビュー記事がある。大きな顔写真とプロのライターの文章があるかないかで、印象がちがってくる。竹中昇の雑誌の登場はない。
より厳しいルートから冬の剱岳・黒部を登るためのステップとしてヒマラヤ7000m峰に登るという発想、おもしろいじゃないか。
(かつては日本の山はヒマラヤのためのトレーニングという考え方が色濃かった)
精力的に難度の高い活動をしていても、自己顕示欲に乏しいと名前が出にくい。
誰かがとりあげないと、いつのまにかいなかったことになってしまう。
【竹中昇(たけなか のぼる)|1952年(昭和27年)、兵庫県豊岡市生まれ】
中学校から山岳部、高1で国体に出場。浪人時代のひと夏を三俣山荘で過ごし、黒部の山賊との出会いが、のちの土着の山登りに影響をあたえる。早稲田大学山岳部4年のおわりころより少人数での独創的な登山をはじめる。
76年3月、黒部別山第1尾根〜剱岳・八ツ峰1峰3稜。77年3月、鹿島槍ガ岳〜赤沢岳北西尾根〜黒部別山南尾根〜剱岳・八ツ峰1峰3稜。77年12月〜78年1月、親不知〜西穂高岳。79年3月、鹿島槍ガ岳〜赤沢岳西尾根〜黒部別山第1尾根〜剱岳・八ツ峰1峰3稜〜北方稜線下降。
76年、ドゥナギリ(7066m)北面(初登)。78年、グール・ラシュト・ゾム(6650m)東壁(初登)。79年、シックル・ムーン(6574m)南東稜(初登)、ブラマー1峰(6416m)南東稜。80年、バトゥラ1峰(7786m)南稜(7500mまで)。
80年〜81年、植村直己率いる冬季エベレスト登山中に滑落死亡。享年28。
81年3月、早稲田大学教育学部教育学科卒業。『竹中昇遺稿追悼集 風狂を尽して』(85年発行)。「日本山岳会学生部年報」や「山岳」の編集にも携わる。コーヒーと煙草が好き。
きょう読み終えた本。
『パンドラ ―約束の頂―』(大石明弘著)
この本は大石くんの半生記。
大学に入って不思議なシェアハウスに住むところから、ハチャメチャな青春がはじまる。
ちっこくまとまらない行動力の塊――野口健、平出和也、谷口けい、平賀淳、小林元喜――らとの出会いで世界は格段にひろがる。
大学1年ですぐヒマラヤ6000m峰登頂、3年でマッキンリー登頂、4年で8000m峰登頂。
(高校時代に山はほとんどやっていない)
順風満帆のようだけれど、そうでもない。
大学を出てもしばらくすると家業を継ぐことになる。大雨による自営業のための備品の大損害。たびかさなる山仲間の死。
それでも家業と家庭をもちつつ山への思いは尽きない。
国内の高難度の冬季登攀から欧州アルプス、アラスカのハンター北壁へ。そして『太陽のかけら アルパインクライマー谷口けいの軌跡』の執筆。
いったいどっからそんだけのパワーが出てくるんやッ!?
この本のタイトルであるネパール・ヒマヤラのパンドラ(6850m)北東壁に挑むのは、アルパインクライマーとしてピークをとっくに過ぎた44 歳。
ネパール入国して早々大雨による土砂災害にみまわれたり、ようやく着いたベースから壁を偵察すると予想外にコンディションがわるかったりする。
あらゆる歯車が噛み合わないなかでの挑戦。
実際にやった人ならわかるけれどリスクの高い登攀を前に、すべての条件が揃ったところでなかなか出発できない。
これらすべては大石くんのパンドラ登攀に対するモチベーションの高さ。
そしてあらためておもったのは、出会った人によってその人というものがつくられてゆくのかもしれない。
昨夜、読み終えた本。
『山を歩く、魂が還る』(矢作直樹著)
加齢により体力が低下したとき、どのようにして登山と関わっていけばいいのか。
ある年齢に達すれば誰もが直面する。
(ワシは六十歳過ぎてもピンピンしとるいう人って、もともと体力を使うような山に行っていない)
この本を読んでゆくと、体力の低下=(イコール)失うとはならないようだ。
肩の力を抜いて、はじめて見えてくる光景がある。
ゆっくり歩いてみて、はじめて気づくことがたくさんある。
もしかしたら、体力的に山が歩けなくなってからはじめて出会える世界というものもあるのかもしれない。
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それにしても無理のない歩みを意識して、これだけ歩けてしまうのはやはりスゴい。
著者の還暦以降の主な山行。
・2021年3月10日〜27日(18日間)、三伏峠〜小河内岳〜荒川岳〜赤石岳〜聖岳〜茶臼岳
・2022年3月12日〜22日(11日間)、三伏峠〜塩見岳〜仙塩尾根〜北岳
・2023年3月11日〜22日(12日間)、農鳥岳〜北岳〜仙塩尾根〜仙丈ヶ岳
・2025年3月17日〜4月10日(25日間)、光岳〜茶臼岳〜聖岳〜赤石岳〜荒川岳〜三伏峠〜塩見岳〜北岳
いずれも単独。
2026.4.15 20:32 [
山 未分類 本]
昨夜、読み終えた本。
『山と友 Ⅲ 第一巻 山 東京大学運動会スキー山岳部百周年記念誌』(東京大学山の会編)
(何年か前に届いてようやく読んだ)
大正時代より令和まで、百年間の部の活動。
なによりも時代の変化にいちはやく対応している。
昭和の時代の大学山岳部って伝統遵守で、新しいことをなかなか受け入れない傾向があった。
たしかに明確な課題があるときは考え方を固めたほうが効率的だけれど、課題が見えなくなったとたん行き詰まる。
やはり発想の転換はだいじだ。
・冬の前穂高岳北尾根に1000メートルのロープをフィックス。
→安全が確保できれば技術や経験の不足をカバーできる。1、2年生も山頂に立つことが可能になる。
・シブリン北稜の難しい岩稜で難しい箇所では登山靴から運動靴(クライミングシューズが出まわっていないころは運動靴だった)に履き替える。
→雪さえ付いていなければヒマラヤだろうが冬壁だろうが、登山靴で登ることはない。安全かつ速さ。雪も氷も付着していないのに登山靴にアイゼンじゃないとダメ、と融通の効かない人が多い。
ほかにも昭和の時代は多くの大学山岳部で消極的だったフリークライミングや冬壁を積極的に取り入れ、難峰といわれるシブリン北稜(初登)やK7(初登)へとつながってゆく。
大学山岳部にかぎらずに行き詰まるときって、だいたい思考の凝り固まりが原因のようだ。
その凝り固まりから解き放たれるには、やっぱりめっちゃ頭を使う。