⚫噛み合わない会話の例・その1
「山はもう長くやられているんですか?」
「いや山を完全にやめてからずいぶん長いよ。だって才能なきゃいくら努力しても時間とエネルギーのムダだからね。やればできるなんて、神に選ばれたごく一部の才能ある人か、勘違いしとるだけのチンチクリンかのどちらかだから。才能のなさを悟ったらバッサリ切り捨てたほうがいい」
「。。。。。。。(会話が途ぎれる)」
⚫噛み合わない会話の例・その2
「これまでにいちばん難しい山はどこに登りましたか?」
「難しい山は一度も行ったことないよ。だって今の若いクライマーから見たら30年前に成されたことなど、難度的にやったうちにも入らない。難しい山に登りましたと言っているのは、神に選ばれたごく一部の才能ある人か、勘違いしとるだけのチンチクリンかのどちらかだから。現役時代もけっきょくは山には一度も登ることなく終わったよ」
「。。。。。。。(会話が途ぎれる)」
*
もちろんいつもぶっきらぼうに返答しているわけじゃない。
一言のコメントが難しいときも、噛み砕いて丁寧に返答することもある。
ただ、この人にはいくら説明しても伝わらないだろうなと直観的に思ったときは、上記のように返している。
ガチガチに凝り固まってしまった輩には、説明するだけムダ。
きっとご縁がなかったんだよ。
裏を返せば自分がそうされたときは、その真逆ということだ。
だいたい無理に話を合わせたところで、どうせすぐ疎遠になっちゃうからね。
才能というのは定義があいまいすぎる。
人によってその解釈に幅がありすぎる。
自分なりにはこう捉えてみた。
才能とは優劣を差し引いて夢中になれるもの。
前に読んだミャンマー北部の山岳民族の村に長期滞在したジャーナリストのルポでこんなことを思い出した。
もともと閉鎖的なミャンマーのなかでもさらに閉鎖的な山岳民族のエリア。
村の人たちは日本もアメリカも知らず、彼らの世界観はその村およびその周辺で閉じられている。
世界観がそこで閉じられた人たちには、いくら時間をかけて優しく噛み砕いて話したところで通じることはない。
最近山とかで会う人たちにもおなじことを感じたりする。
話がまるで通じない感がすごいのだ。
山の雑誌は毎月欠かさずに熟読してます。なんちゃら登山講習会で習ったことはきちんとテープにとってかならず復習しています。
事実を見ることよりも活字をはじめとした情報に重きを置く人たち。
情報というのはしばしば事実からかけ離れていたりする、といった話がまず通じない(笑)
活字をはじめとした情報に重きを置く人たちの世界観は、やはりそこで閉じられてしまっているのだろう。
理論派が良いとか感覚派が良くないとか、途上国が良いとか先進国が良くないとか、どちらがどうこうといった話ではない。
コミュニティにしろ社会にしろ、どっぷりとつかるほど世界観は閉じられてしまうのだろう。
溶け込むことによって、見えにくくなってしまうものがある。
きっと誰もがその人のなかでその人の世界観というものによって閉じられているのだろう。
苛立ちを抱えてはじめて気づくことってたくさんある。