すこし前に読んだ本。
『考える脚 北極冒険家が考える、リスクとカネと歩くこと』(荻田泰永著)
この著者の足跡はいまさら語ることもないけど、ざっと触れてみる。
2000年より北極圏各地を15回(現在進行形を入れたら16回)、9000キロ以上を氷雪の上をソリを引いて歩いている。
2018年、南極点に無補給単独到達。
いまの極地冒険家の第一人者である。
さてこの本だけでなく、この著者の文章に「根拠のない自信」というのが何度か出てくる。
ちなみに根拠のある自信とは、それなりに実績や実力をつけたうえでようやく得られる自信とでも定義すればいいのだろうか。
根拠のある自信とは、よく考えてみればあたりまえっちゃあたりまえだ。
それなりに時間とエネルギーを費やして準備をすれば、それなりの自信は得られる。
根拠のない自信とは、経験も実力もともなわないけれど直感的に自分にはできそうだと思い込むことであろう。
なんとなくイメージしてみると成功した自分がそこにいる。
ところが根拠のない自信は、ときにやっかいでもある。
事情に少しだけ明るい人からのツッコミがしばしば入ったりする。
しかし根拠のない自信は、そんな雑音などスルーしてしまう。
たぶん根拠のない自信にはとてつもないポテンシャルがあるのだろう。
「たいして実力も実績もないくせに、アイツいったい何寝言いっとるんやッ!!」
事情に少しだけ明るい人は、しばしば頭ごなしに叩き潰そうとしたりする。
根拠のない自信を持っている人って、もしかしたら飲んだ席でのみ勇猛果敢にふるまうクソオヤジみてえに典型的な大ホラ吹きなのかもしれない。
でももしかしたら大衆を感動させたり事情に少しだけ明るい輩を脱帽させたりするくらいの大きなことをやってしまうのかもしれない。
じつをいうと自分のなかでも過去に根拠のない自信によって成功したことが何度かあった。
すこし前に読んだ本。
『リヤカー引いてアフリカ縦断』(吉田正仁著)
たとえばどこでもいいから国道を1日40キロ歩いてみる。
できれば真夏日とかを選んでやってみる。
おそらく何割かの人は歩きはじめてすぐにギブアップするだろうし、何割かの人は歩けてもそれだけでお腹いっぱいになるだろう。
翌日もまたおなじことをやろうという体力と気力が残っている人はきわめて少ないだろう。
そんなふうにイメージしてみるとこの本の旅の厳しさがつかめる。
エジプト、スーダン、エチオピア、ケニア、ウガンダ、タンザニア、ザンビア、ジンバブエ・ボツワナ、南アフリカ。
アフリカ大陸を北から南へ歩いて縦断。
所要316日、距離1万1000キロ。
気温プラス50度、暑さよりも鬱陶しくつきまとう現地の人、そして強盗。
旅は艱難辛苦の連続たけれど、文章は思いのほかあっさりしている。
水平の旅の紀行にありがちなやたら興奮しすぎているシーンがさしてない。
なんでやねん。
必要以上に他者に認めてもらいたいという欲求がないからないのかもしれない。
この著者は自分らしい旅を淡々とつづけてゆく。
だから旅の終わり方もあっさりしている。
ひとつが終ってもすぐに次が見えてくる人は必然的にそうなるのかもしれない。
ひたすら目指してきた喜望峰は、辿り着いた瞬間に目的地から通過点へと変わっていった。
すこし前に読んだ本。
『天才と発達障害』(岩波明著)
短所は長所であり、長所はまた短所でもある。
たとえば「計画性のなさ」は「臨機応変」でもある。
そう考えてみるとかなりの人がそれぞれの才能を持っているといえなくもない。
ではなぜそうした人たちは世に出てこないのかな。
やはり日本社会においては正しい正しくないにかかわらず、異端なものは抹殺するからだろうか。
中途半端なヘタレの意見など潔く切り捨てて己の勘のみを信じて前へ前へ。
そういう凄まじい行動力と執念がないことには、長所をのばすことなどできないのが現状なのかもしれない。
なにか大きなことをやる際に問われるのは、反復練習によって培われる細かな技法だろうか、それとも行動力や集中力だろうか。
この本の狙いとはちがうことばかり考えてしまった。
「クレイジージャーニー」の放送が、週刊文春(2019年4月4日号)で紹介された。
雪山登山家って肩書きがなんか変だけれど、知名度あるわりにはラッセルやったことない登山家とかリスクを毛嫌いする冒険家もけっこういるからいいのかな(笑)
雪山で楽しんでいる、とりわけたとえ山頂に立たなくっても充実した時を過ごしている、というのは伝わったようだ。
詳細はこちら。
https://bunshun.jp/articles/-/11284?page=1
書評を書いた。
『失われた、自然を読む力』(トリスタン・グーリー著)
自分が山に行くときにGPSは持っていかないし地図やコンパスも必要以上には取り出さない。
おおざっぱな地形を頭に入れたらもっぱら勘を頼りに歩いている。
これまでそんなふうによく答えていたけれど、この本を読み終えてじつは経験に基づく知識や法則によるものであったことに気づいた。
たとえばこんなこと。
ホワイトアウトの山で地図やGPSに頼らずにおよその標高を知ることができた。
その山域の森林限界の標高を知っていれば、まわりの植生態から標高を逆算することができるわけだ。
あるいは目印に乏しい冬のカナダの大雪原ではスノーモービルの跡が頻繁に目につくようになると先住民の村が近づいてきたサインとなった。
ただ現代は地図読みやGPSの使い方が全盛で、自然のなかにあるサインになかなか目が向かないゆえになんとなく勘ですすんでいるだけだと解釈されてしまったようだ。
もちろん勘による部分もなくはないが、そう多くはなさそうだ。
もしかしたら経験に基づく知識や法則が、知らないうちにほかの人たちよりも多いのかもしれない。
この本は本格的な登山や冒険のためのサバイバル本ではなく、自然のなかを散策しながら自然からのサインを見つけ出してそれを手がかりに方角や位置を知るというひとつのゲームとして楽しむものである。
詳細はこちら。
https://www.yamakei.co.jp/products/2818901008.html
『「承認欲求」の呪縛』(太田肇著)
たとえばテストで良い点をとったとする。
教師もまわりもなんとなく期待する。
それをきっかけに期待に応えようと、以前にも増して頑張るようになって成績も徐々にのびてゆく。
しかしやがてスランプがやってくる。
これだけがんばったのにどうして結果がともなわないのだろう。
いつしか教師もまわりもかつてほど期待はしなくなる。
ある意味でそれがその人の真の実力だったのかもしれない。
ところがその人にとっては、一度得た評価をそうそう簡単には捨てられない。
いや、こんなはずやない。
成績が下がりはじめても幻影にも似たかつての評価にしがみつく。
その先はやればやるほどドツボにハマる。
以上はあくまでたとえ話。
でも似たような話はだれもが経験したり聞いたりしたことがあるだろう。
承認されることによって、どんどん力がのびる。
承認されなくなることによって、どんどん精神的に不安定になってゆく。
この本は、著名人の自殺や犯罪を例にして承認されることによる光と陰についてかたっている。
承認されることはそれなりに必要だけれど、いっぽうでほどほどにせいということか。
よく失敗して自殺するなんて技能的には長けていたのかもしれないけれど人間的には未熟であった。
そうコメントする輩ってけっきょくは失って困らないていどのものしか手にしたことがないんじゃないか。
何かに取りつかれるなりのめり込むなりして、気がついたら取り返しのつかないところまで突き進んでしまった。
そういう境地に達するのも、もしかしたらその人にとっては幸せだったのではないだろうか。
幸せだったか幸せではなかったか、それだけはたとえ学者であってもはかることはむずかしいのではないか。
きっと本人にしかわからないのではないか。