昨夜読んだ本。
『日本軍兵士 ――アジア・太平洋戦争の現実』(吉田裕著)
敗戦直前における最前線での兵士の目線で語ったもの。
いわゆる現場の生の声だ。
ハッキリ言ってこれじゃあ戦に勝てっこねえよッ!!
そう毒づきたくなる。
誤解されるといけないけど、戦争の是非を言ってるのではない。
あまりにも戦果に乏しいのに、やり方を改善しないでつづける。
趣味じゃあるまいし、戦争にはやりきった感など不要。
戦争は勝ってなんぼや。
にもかかわらず軍の上層部は日露戦争における勝利の余韻をあいかわらず引きずっているのか、精神主義一辺倒で時代の変化をぜんぜん頭に入れていない。
補給が経たれても根性で突き進め、武器がしょぼくても根性で突き進め、弾がなくても根性で突き進め。
竹槍でB29が堕とせたら人生苦労しない。
上層部の精神主義の皺寄せを受けた多くの兵士たちが無駄死を強いられた、ということがこの本にはたくさんのデータ(数値)で書かれている。
くり返すけれど、あくまでも戦争を肯定しているのではない。
◆
成功体験に乏しい人がたまたまうまくいくと、そのやり方に固執しはじめる。
つぎにやるときもまわりの状況の変化も何も考慮にいれなくなる。
というのはどこにでもある話だ。
自分が若いころ(昭和の終わりころ)の大学山岳部やワンダーフォーゲル部や山岳会も似ていた。
(もちろんそうでないところもあったけどそれはきわめて少数)
やみくもに反復練習すれば夢はかなうみたいな。
でも実態は大多数が、荷物は担げない、ラッセルは遅い、岩は登れない、生活技術は拙い、状況判断は甘い。
はたから見ていていつも無駄な努力だって辟易していた。
基本をくり返しても実践にはならない。
そのことをリーダー層に指摘すると、目くじらを立ててしまう。
思考停止に陥るってオトロシイ。
きっといまでもどこかでおなじことがくり返されているのだろう。
もしかしたら自分でも同様の過ちを犯しているのかもしれない。
それじゃあうまくいきっこないという声はいつも黙殺されるし、自分でも黙殺してしまう。
昨夜読んだ本。
『トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか』(羽根田治、飯田肇、金田正樹、山本正嘉著)
2009年夏に北海道の大雪山系のトムラウシ山で起きた夏山登山史上最悪の遭難事故。
18人グループのうち8人が死亡。
ツアー登山の実態というか背景を見ると、起こるべくして起きたともいえる。
山のことまるでわかっちょらんツアー会社、山のことまるでわかっちょらんツアー会社の管理職クソ・オヤジ、山は好きだけど山の実力も経験もほとんどないチンチクリン系クソ・ガイド、想定内のことは完璧にこなすけど想定外の事態に遭遇するとパニクって捨て駒にも使えないチンコ野郎系クソ・ガイド。
状況を分析するとハッキリ言って先鋭クライマーのフリーソロや極地冒険のソロより格段に死ぬ確率は高い。
この事故が起きる前からツアー登山のリスクに関しては、しょっちゅう話題になっていた。
でも中途ハンパな経験者やちっぽけな成功体験をもつ者ほど、頭コチコチで他者の意見をなかなか受け入れない。
この事故で亡くなった登山者やまわりの人にこんなこと言ったら失礼きわまりないけれど、もしこの事故が起きなければツアー会社もガイドも爆走してさらに大きな遭難事故が起きていたと言えなくもない。
敗れて目ざめる。
きのう読んだ本。
『黒部の山賊』(伊藤正一著)
終戦直後に北アルプスの黒部源流の三俣山荘にたむろしていた四人の猟師のはなし。
彼らの卓越した技能には驚かされる。
昔の猟師の体力、とりわけ脚力に関してはさまざまな書物や資料で確認されている。
昨今の自称・山のベテランが数日費やすところを軽く1日で駆け抜ける。
それよりも終戦直後の乏しい情報量と乏しい装備であれだけの日数を険しい山に入っていて、大きな事故に見舞われていない。
いわゆる下界というか都市部に暮らす人たちよりも桁違いに膨大な知識や法則、知恵が猟師たちの頭には詰まっているのではないだろうか。
あくまでも推測に過ぎないけれど、体力だけでは理不尽の集合帯ともいえる自然の猛威のなかで生きのびることはむずかしいとおもう。
ちなみにこのあたりはこれまでに何度も訪れているけれど、この本を読んだあとに再訪したらおそらくこれまでとはちがった光景が見えてきそうだ。
ボクシングでチャンピョンになりたいとかラグビーで優勝したいというのはわかる。
ボクシング協会とかラグビー協会とかでやたら高い地位に執着するというのはあまりよくわからない。
でも登山界でも冒険界でも、実力も実績もしょぼいのに権力志向の強い人はいる。
そういうのがウザいから組織的なところとはなるべく距離を置くようにしている。
自分はいったい何をやるためにこの人たちと関わりをもっているのだろうか。
たまにそう考えてみたい。
◆
『怖い人 平凡な人ほど他人を蹴落とし、のし上がる』(片田珠美著)を読んでそんなことを思った。
「実力のない凡人が自己保身のために他人を蹴落とすことはよくある」
昨夜読んだ本。
『世にも美しき数学者たちの日常』(二宮敦人著)
気鋭の数学者たちにインタビューしたもの。
オイラは数学のことなどさっぱりわからんけど、それでもなんだか言わんとすることがわかりそうな気がした。
読みはじめたら予想どおり。
すくなくとも山小屋とかで会う自称・山のベテランさんや旅先のゲストハウスとかで見かける自称・旅のツワモノたちよりも、この本に登場する数学者たちのほうが遥かに話が通じそうだ。
彼らの数学を自分のやっている山や旅に置き換えてみると、なぜかピタリと意味が通じてしまった。
「数学は何かのために作ったわけじゃないですよ。心の赴くままにやったものなんです」
→気がついたらやっていた。なぜ?に対する理由なんて後付けにすぎないのだろう。
「おそらくですね、数学の定理を作るって、努力したからできるものじゃないんです。天性のものだと思います」
→死にもの狂いで努力しただけでは不十分。なおかつ直感や閃きといった嗅覚のようなものがないと大成しない。ときには才能のない自分という現実をも受け入れていかざるを得ないシビアな世界ということだろう。
「山を見た時、あ、これなら登れるなとピンとくる。そういう感覚と同じかもしれません。実際に登れるかは、やってみないとわからない部分もある。数学が美しいという感覚は、そこなんじゃないか」
→できるかできないか偏差値的(科学的?)な判断ではなく、直感的なものがきわめて大きいということだろう。
なおこの本の数学とは、試験で点数をとるためのものではない。
宇宙とは何かといった疑問を解決するための手段のひとつとして数学というものを捉えている。