「クレイジージャーニー」の放送が、週刊文春(2019年4月4日号)で紹介された。
雪山登山家って肩書きがなんか変だけれど、知名度あるわりにはラッセルやったことない登山家とかリスクを毛嫌いする冒険家もけっこういるからいいのかな(笑)
雪山で楽しんでいる、とりわけたとえ山頂に立たなくっても充実した時を過ごしている、というのは伝わったようだ。
詳細はこちら。
https://bunshun.jp/articles/-/11284?page=1
書評を書いた。
『失われた、自然を読む力』(トリスタン・グーリー著)
自分が山に行くときにGPSは持っていかないし地図やコンパスも必要以上には取り出さない。
おおざっぱな地形を頭に入れたらもっぱら勘を頼りに歩いている。
これまでそんなふうによく答えていたけれど、この本を読み終えてじつは経験に基づく知識や法則によるものであったことに気づいた。
たとえばこんなこと。
ホワイトアウトの山で地図やGPSに頼らずにおよその標高を知ることができた。
その山域の森林限界の標高を知っていれば、まわりの植生態から標高を逆算することができるわけだ。
あるいは目印に乏しい冬のカナダの大雪原ではスノーモービルの跡が頻繁に目につくようになると先住民の村が近づいてきたサインとなった。
ただ現代は地図読みやGPSの使い方が全盛で、自然のなかにあるサインになかなか目が向かないゆえになんとなく勘ですすんでいるだけだと解釈されてしまったようだ。
もちろん勘による部分もなくはないが、そう多くはなさそうだ。
もしかしたら経験に基づく知識や法則が、知らないうちにほかの人たちよりも多いのかもしれない。
この本は本格的な登山や冒険のためのサバイバル本ではなく、自然のなかを散策しながら自然からのサインを見つけ出してそれを手がかりに方角や位置を知るというひとつのゲームとして楽しむものである。
詳細はこちら。
https://www.yamakei.co.jp/products/2818901008.html
『「承認欲求」の呪縛』(太田肇著)
たとえばテストで良い点をとったとする。
教師もまわりもなんとなく期待する。
それをきっかけに期待に応えようと、以前にも増して頑張るようになって成績も徐々にのびてゆく。
しかしやがてスランプがやってくる。
これだけがんばったのにどうして結果がともなわないのだろう。
いつしか教師もまわりもかつてほど期待はしなくなる。
ある意味でそれがその人の真の実力だったのかもしれない。
ところがその人にとっては、一度得た評価をそうそう簡単には捨てられない。
いや、こんなはずやない。
成績が下がりはじめても幻影にも似たかつての評価にしがみつく。
その先はやればやるほどドツボにハマる。
以上はあくまでたとえ話。
でも似たような話はだれもが経験したり聞いたりしたことがあるだろう。
承認されることによって、どんどん力がのびる。
承認されなくなることによって、どんどん精神的に不安定になってゆく。
この本は、著名人の自殺や犯罪を例にして承認されることによる光と陰についてかたっている。
承認されることはそれなりに必要だけれど、いっぽうでほどほどにせいということか。
よく失敗して自殺するなんて技能的には長けていたのかもしれないけれど人間的には未熟であった。
そうコメントする輩ってけっきょくは失って困らないていどのものしか手にしたことがないんじゃないか。
何かに取りつかれるなりのめり込むなりして、気がついたら取り返しのつかないところまで突き進んでしまった。
そういう境地に達するのも、もしかしたらその人にとっては幸せだったのではないだろうか。
幸せだったか幸せではなかったか、それだけはたとえ学者であってもはかることはむずかしいのではないか。
きっと本人にしかわからないのではないか。
きょう読んだ本。
『極夜行前』(角幡唯介著)
昨年ほぼ同時期に刊行された『極夜行』が本番だとすれば、この本は準備編である。
・2012年11月下旬~13年1月(2カ月)、カナダ北極圏ケンブリッジベイ周辺。
・2014年1月上旬~3月下旬(3カ月)、グリーンランド北極圏シオラパルク周辺。
・2015年3月下旬~10月下旬(7カ月)、グリーンランド北極圏シオラパルク周辺。
これら準備編の旅は出だしから装備の不備やら何やらで、終始歯車が噛み合っていない。
いわゆる出だしこそトラブルつづきだけれどやがて起動に乗って最後は目的地にめでたくゴールするというよくあるパターンとはぜんぜんちがう。
この著者の冒険における実力はいまさら語るまでもなくそろなりに経験を積んでいるけれど、やろうとしていることがあまりにも壮大過ぎてあまりにも前代未聞過ぎる。
こりゃ本番もダメかもしれないとも思えてしまう。
さてこの著者の目的地はあくまでも目安みたいなもの。
極寒で真っ暗闇な厳冬の北極圏における極夜という自然を深く体験することが本命である。
そういったニュアンスのことはこの本に書いてある。
それにしても、この著者をここまで駆り立てたものはいったい何なのだろう。
ここから先は推測になる。
社会的(対外的?)なものはさほど求めていないのではないか。
めざしたのは自分の旅だけ。
何もめざしていないと言えなくもない。
辿ったところには雪原があるだけ。
自然と自分と向き合うこと以外に何もない。
ただ雪原を移動してただ雪原に滞在して。
それがすべてであった。
なぜそんなふうに思えたのか。
自分がここ10年ほどやっている旅がそうだったからである。
一見すると理解不能ともいわれかねない、そんな旅こそがすくなくとも自分にとってはおもしろかったのだ。
書評を書いた。
『山登り12カ月』(四角友里著)
この著者は、アウトドアスタイル・クリエイターであり「山スカート」の火つけ役でもある。
これまで書評といえば冒険モノか登攀モノばかりだったけれど、どうして山ガールのカリスマ(?)であり登山の初心者を対象にしたこの本とかかわることになったのか。
仕事と割りきって書いたわけではもちろんない。
この本の文章のなかに共感するところが少なからずあったからだ。
自分の冬壁とか冬の長期縦走をちょびっとだけ触れている。
そのあたりのことも絡めて書いてみたのが今回の書評だ。
掲載誌はこちら。
http://www.yamakei.co.jp/products/2818901001.html
きのう読んだ本。
『ある世捨て人の物語 誰にも知られず森で27年間暮らした男』
アメリカ東海岸北部のメイン州(だいたいニューヨークのすこし北、モントリオールのすこし東)の森に27年間隠れ住んでいた男を取材したルポ。
冬にこのちかくまで行ったことあるけど、ヘタするとマイナス30度くらいまで下がる。
誰とも接することなくひたすらテント生活。
ソローの『森の生活 ウォールデン』を思い浮かべるだろう。
(ソローは小屋だけど、やはりアメリカ東海岸北部のマサチューセッツ州)
ソローは本を出版(インタビューされたのではなく自分で書いた)したわけで、あたりまえっちゃあたりまえだけど外の世界とパイプがある。
まあソローにかぎらず一匹狼とか孤高の人とかは、なんだかんだいって人とも社会とも繋がっているし自分をアピールすることに関しては案外ふつうの人よりうまかったりする。
それに対してこの本の男は27年間、社会とのパイプがまるでない。
興味をひいたのは長年の森の暮らしにおける精神状態である。
森で何をやったのか世間に理解してもらわなくてもかまわない。理解されるためにやったわけではない。
目標も目的も理想も、もはや存在しない。
何々のためにといった理由づけなど不要。
自己表現の必要もない。
永遠の現在にただ存在した。
ただそこにいる。それだけなのだ。
なんだか拍子抜けした感じがしないでもない。
だって何かをやるにあたって、どうしてもその先に何かを期待してしまうから。
究極の悟りとは、悟ることが何もなくなることなのかもしれない。