昨夜読んだ(4年ぶりの再読)本。
『冒険の蟲たち』(溝渕三郎、與田守孝、長篠哲生著)
1976年、クルマに登山用具一式を乗せて北から南へ。
10カ月間におよぶ南北アメリカ縦断登山の記録。
カスケード山脈のスキー登山、ヨセミテでのクライミング、アンデスの氷壁登攀やスキー滑降、そしてアマゾン川源流部でカヌー下り。
何というジャンルなんだろうと頭をかしげたくなるほど、さまざまな冒険を織り交ぜて登山の幅をひろげた。
より良いスタイルに執着しすぎるあまり、何々でなければならないといった教条主義的なルールを自身に果たすことがない。
昨今の登山や冒険モノにありがちな、いかにも自己弁護的な小難しい説明(ときにうまく言いくるめているだけだったり)がないのがこれまたいい。 およそ見えない枠といったものがかんじられない。
雄大な自然を目の前に地図や資料を目の前に、好奇心のおもむくままにただ登りたいからただ滑りたいからただ漕ぎたいからそれをやる。
単純明快だね。
*
じつは20年前にはじめて冬のカナダへいったとき、彼らのこの旅をどこかで意識していた。
(単行本として発刊されたのは2009年だけど、山岳雑誌においてこの記録は何度か掲載されていた)
やっていることはもちろんスポーツだけど、心は何物にも束縛されない自由な旅。
そして20年経って冬のカナダが一段落して、新たなる舞台へと移行しつつある今でもこうした自由な発想というものが自分の根底にあるのだと思う。
パイオニアワークだの冒険論だの価値がどうだの、そんなの関係ねえ。
(まあその割には自分でもしょっちゅう冒険論を展開しとるけど(笑))
ただやりたいことこそが、その人にとって最高のスタイルなのだ。
きのう読んだ(読み終えた)本。
『外道クライマー』(宮城公博著)
登山や冒険モノの本(雑誌の記事でも)が出たとき、読み手はだいたい大きくわけて2つの陰口をたたくようだ。
「やっていることは独創的だし技術的な難易度は高い。そうかんたんにマネできない。でも文章は淡々としてネタも地味ではっきりいっておもろくねえ!」
(先鋭的なクライミングに多いかな。ぜんぶがぜんぶじゃないけど)
「めりはりのあるわかりやすい文章とドラマチックな構成から成り感動的だ。でも、やっていることはあるていどの休暇と予算があれば誰でもできるじゃん!!」
(自転車旅とかに多いかな。こちらもぜんぶがぜんぶじゃないけど)
表現も行動もともにというのはやはりなかなかにむずかしいようだ。
でもこの本は、行動も表現もともにイケる。
なによりもネタからして斬新だ。
立ち入り禁止の滝を登って逮捕されたり、密林の沢では大蛇と格闘したり。
あるいはタイの歓楽街で現地の女の子にハマった50歳ちかいエロ・オヤジをそそのかして、厳冬の立山の雪崩の巣に突っ込んでみたり。
タイのエロ・オヤジはべつとして、なんだか子供のころにイメージしていた探検物語の世界のようだ。
そして舞台は海外へも。
台湾、ミャンマー、タイなどアジア旅ではすっかりおなじみの国だが、この本では沢登りの舞台として登場する。
沢登りは日本独自の登山っていったのは誰だとツッコミたくなるけど、要はこれまで見過ごされてきたエリアにおいて新たなる沢登りのスタイルを見いだし実践している。
展開しているのは沢登りだけにとどまらない。
厳冬の立山の称名滝やハンノ木滝において、日本国内でもっともロシアンルーレット度の高い(3回トライしたら1回くらいは死んじゃうかなというくらい)クライミングも行っている。
ほかの人たちが課題はなくなった地球はせまくなったあんなのは自殺しにゆくようなもんだと酒飲んではチャレンジしない理由をぐだぐだ語っているあいだに、この著者は地図や資料を丹念に調べて可能性を見出してゆく。
だからこの本を読んでいると地球がどんどんひろくなってゆく。
可能性の幅もどんどんひろがってゆく気分になる。
マジで日本国内だけでもまだまだあらゆる可能性があるじゃん。
そう思えてくる。
山屋や沢屋にありがちな、堅苦しさ暗さ重苦しさがない。
状況は陰惨きわまりないはずなのに、どこかマンガチックで軽快に綴っている。
だからすらすら読めてしまう。
この勢いで、2冊目も出してほしいね。
きのう読んだ(読み終えた)本。
『アローン・オン・ザ・ウォール』(アレックス・オノルド著)
究極のフリーソロ(ロープなしで登る。堕ちたら死ぬ)クライマーの軌跡。
読めば読むほど、凹むし激しい劣等感につつまれる。
だってこの著者のやってること、どう考えてもマネできない。
反復練習をくり返してコツコツやれば、大器晩成という言葉があるという人もいるかもしれない。
でもそういっている人って、時間とお金さえかければ誰でも到達可能な狭い世界しか知らなかったりする。
他人は他人、自分は自分、っていう人もいるかもしれない。
でもそういっている人って、自分のまわりに突出した優秀な人が居らず毒にも薬にもならない輩に囲まれているだけだったりする。
「オメーがやってんのなんか、クライミングでも何でもねえ。そんなの岩に触れたうちにも入らねえ! すこしは頭を冷やせ!!」
ページをめくるごとに、自分がそう罵倒されてるようだ。
仕方ないよな。
柔軟性をはじめとした身体能力、恐怖の克服の仕方、まわりが何といおうが突き進めるモチベーション、、、
どれをとっても、自分がやってることなんてしょせんはそのていどにすぎないのだから。
自分にはクライミングの才能が皆無だと二十歳のころに悟ったけど、この本を読んであらためて才能のなさが決定的なものになった。
まあ人生において「気づき」はたいせつだ。
自分には手が届かないと現実を受け入れることによって、こんどはちがう可能性の扉がひらくということだってあるのだからね。
ただ、、、
過ぎてしまった過去に対して、もし何々だったらできたかもしれない、というのはあり得ないことだし言ってもいけないことである。
それでもあえて問うてみたい。
もしクライミングの才能のなさに気づくのにもうすこし遅かったら、もしかしたら行動半径ももうすこしひろがっていたような気がする。
気づかないというのも、ある種の才能なのかな、、、
死のリスクがないものは冒険ではないだろう。
死のリスクと対峙するからこそ、「自分はいま、たしかに生きている」という手応えを実感する。
そして生はよりいっそう輝く。
でもやはりリスクと真摯に対峙する人といえども、あまりはやく逝ってほしくないものだ。
*
昨夜1年ぶりに『アルピニズムと死』(山野井泰史著)を再読して、あらためてそうおもった。
きのう読んだ本。
『江田島海軍兵学校』(徳川宗英著)
海軍兵学校とは士官を養成する学校で、東大並みの難関校であった。イギリスのダートマス、アメリカのアナポリスと並ぶ世界三大兵学校と称された――なんて薀蓄はオイラにとってどうでもええ。
もっとも印象に残ったのは、兵学校出身者の戦死率。
たとえば昭和14年から16年までの卒業生は、いずれの期も6割以上が戦死している。
「残ったのはクズばかり、死んだ奴らのほうが優秀」
これって山とか冒険の世界でもよくいわれる。
ホンマモンの天才やったら生と死とのギリギリまで行って、なおかつ成果を出して生還する。
でも「リスクとまともに対峙」すれば、たいていの人は即あの世行きというのが現状や。
もちろん死んだから偉いっていっとるわけじゃないよ。
なんだかんだいうても、生きていてナンボやからな。
でもやっぱり「残ったのはクズばかり、死んだ奴らのほうが優秀」というのは頭の片隅にでも置いておきたいね。
そうしねえととんでもなく勘違いしたクソオヤジへと墜ちてゆくだけだぜ。
あっ、また本の内容から脱線しちゃったかな。でもそれがこの本を読んであらためて思ったことだよ!!
きのう読んだ本。
『医学部の大罪』(和田秀樹著)
医者(クリニック院長)であり教授(臨床心理)でありたくさんの本を書いているこの著者の見た、医学部をふくめた医学界の暴露本。
医学も科学(化学?)も、オイラにはチンプンカンプンでようわからん。
でも同業者が不利になること(つまりほんとうのこと)を言ってしまうと、その世界からバッシング(あんなのデマカセやと言われたり黙殺されたり)されるという話はおもろいな。
これって医学界にかぎらずどこの世界でもあるけど、この本はより具体的でわかりやすい。
ついでにその世界だけで凝り固まった閉鎖的でドロドロした人間模様(傍から見ればどうでもええやんかっていうレベルの)こそが諸悪の根源っていうのも、これまたどこの世界でもありそう。
この本の帯には「テレビの大罪」「東大の大罪」に続く「大罪」シリーズ第三弾ってあるけど、大罪シリーズはまだまだいくらでもできそうだね!
ヒトも社会もこうしてみると超おもしれ~!!