今回はある目的で、大寒寒波襲来の越後に行った。
山頂でもないし豪雪でもない。
ひとまず目的は達せられた。
とりあえずあけおめだよ。新年2日め。
会社の年賀状だよ。
顔の位置がいちばん低い人(二十代)は、極寒モンゴル北西部で年越し。
顔の位置が2番めに低い人(二十代)は、暴風の富士山で年越し。
顔の位置がいちばん左の人(二十代)は、秋にエル・キャピタンのラーキングフェアを登攀。
顔の位置が真ん中の人(五十代)は、1992年にエル・キャピタンのゼンヤッタ・メンダータを日本人単独初登。
顔の位置が真ん中よりちょい上の人(四十代)は、『坂の上の雲』(NHK放送)で突撃隊として出演。
顔の位置がいちばん高い人(六十代)は、あいかわらず生きることもなく死ぬこともなく年越し。
新年は、やっぱりみんなでガッツ◯っちゃんポーズだよね。
昨夜のThe Tribeでのトークイベント「長期間&長距離 登山家列伝 第2回目 雑食型登山家・細貝栄」だよ。
高校時代に睡魔、幻覚、空腹と闘いながら「眠らずに何キロ歩けるか」を皮切りに、オールラウンドという言葉では括りきれない雑多なジャンルの登山を集中的に実践。型にハマらぬ行動力と自己探究心。千日回峰行など修行僧との共通点についても考察してみた。
なおタイトルの雑食型登山家の二つの意味は、、
一つは食べ物の雑食。細貝栄はなんでも食べる。ヤブ山縦走では、サンショウウオ、ウド、タラの芽、ユリの球根。冬の知床の海岸ではウニをたらふく食べる。冬の日高山脈では、行動食にアルファ米をそのまま食べる。停滞日は、即席ラーメンを生のままかじる。また「旅先であなたの忘れられない食べ物のアンケート」に、猿の糞煮、虎の肉、ハイマツの実、とある。(『地平線の旅人たち』(窓社)より)
もう一つは細貝栄の守備範囲のひろさ。不眠歩行、継続登攀、冬のルンゼ登攀、長期縦走、藪漕ぎ縦走、ヒマラヤの登攀、雨季のネパールトレッキング、ヒマラヤの山麓で水道設置工事や雪男さがし、ミャンマーでの焼畑農業調査、断食縦走。
あと今回のイベントで心残りだったことがひとつある。資料整理は暖かい図書館などではなく凍ったテントでやりたかったが、諸事情からできなかった。
【細貝栄(ほそがい さかえ)|1950年、茨城県生まれ】
東京都立大学に入学後、独学で本格的に登山をはじめる。冬の谷川岳一ノ倉沢における一連のルンゼ登攀。那須〜浅間山の藪漕ぎ縦走では、ⅠからⅥまで藪にグレードをつけた。冬の日高山脈や天塩山地や知床半島、南アルプスでノン・デポ、ノン・サポートによる長期縦走。タムセルク南西壁登攀、ヒマラヤ山麓で雪男さがしや水道設置工事、雨季のネパールや解禁直後のガンゴトリ山群のトレッキング、ミャンマー東部における山岳民族調査。そして断食による長期縦走を実践。
共著に『地誌学を考える』(中村和郎、岩田修二編)。あるくみるきく 147号「限りなき山行」、164号「ひとりぼっちの知床」
先週読んだ本。
『シリアの家族』(小松由佳著)
10年以上におよぶシリア内戦の取材。
まずこの著者の人生が激動シリアとおなじくらい波乱に満ちている。
落胆や絶望に遭遇しても、あらたなる自分に出会えるチャンスとして捉えてしまう。
好奇心の強さ。
先が見えない日々を生き抜く力は、いたってアルパインクライマー向きではないか。
由佳さんは、東海大山岳部出身。現役時代は年間山行日数200日。
(オイラの最高でせいぜい150日(笑))
二十代でK2(8611m)の日本人女性初登頂したり、シスパーレ(7611m)北東壁を試みたりしている。
そうした経歴を経て、いまの写真家としての人間へ、とりわけシリア難民へのまなざしがあるのではないか。
もはやどうにもならなくなったときどうすればいいのかに対するヒントが、この本にあるかもしれない。
バレエ(踊りのほう)について何か書いたのはじめてかも。
クライミングが上手い人ってしばしばバレリーナみたいな動きっていわれる。
また登山歴10年で体力には自信ありくんより、登山歴ゼロでバレエすこしやってましたさんのほうが、クライミングは遥かに上手い。
あと登山歴の長さは飲んだ席以外はクソの役にも立たねえ、とは書かなかったよ(笑)
昨夜読んだ本。
『覚悟の力』(宮本祖豊著)
比叡山十二年籠山行の満行者の話。
ここ半月ほどで、千日回峰行、大峯千日回峰行、そして比叡山十二年籠山行と荒行の本をいろいろ読む。
(SNSで紹介した以外にも読んでいる)
以下、荒行全般の印象。
いずれの荒行も「やったやったやりました」といううすっぺらな達成感の話は出てこない。
荒行を終えたからといって、空が飛べるようになるわけでもなければ超能力が身につくわけでもない。
声を大にして人生哲学を語るわけでもなければ、いきなり教祖になるわけでもない。
長い年月をかけて成し遂げたのだから、その体験を生かして何かしなければといったとらわれもかんじられない。
荒行を終えてからも、日々の暮らしのなかで行はつづいている。
求めていたものが遥か彼方ではなく身近なところにあったことに気づいたりする。
人はしょせん自然の猛威にはかなわない。人は生かされている。
得たものは何かという月並みな問いは適切ではないかもしれないが、ちいさな気づきではないだろうか。
長い年月と修行の積み重ねを経てようやくたどり着いたちいさな気づき。だからこそ、そこには深い意味が生まれる。
もしかしたらそのちいさな気づきの価値は当事者にしかわからないものなのかもしれない。
荒行において達成も身体を酷使することも手段であって目的ではない。荒行の目的は、自分自身を掘り下げていって悟りにちかづいてゆくこと。