1995~99年 冬季カナダ縦断1万5000km
カナダ北極圏沿岸よりアメリカとの国境まで、カナダ西側を縦横無尽に、厳冬季をはさみ4回に分けて縦断した
移動手段の内訳は、自転車1万km、徒歩2000km、山スキー1000km、カヤック1400km
厳冬季の自転車踏破や山スキー縦走としては、一部エリアで世界初記録にもなった
ひとつの可能性を見切る時、新たなる可能性が始まっていた
辿ってきた土地の記憶
1999年2月、カナダで迎える冬は4度目だった。ロッキーの長期縦走は無雪季を含めると、すでに2度経験していたので旅立ち前からくる不安や困難を感じることは少なかった。今回は、バンフ国立公園のボウ湖からアメリカ合州国との国境となるウォータートン・レイクス国立公園まで、約750km。山スキー500kmと徒歩250kmの4カ月の旅だが、起こりうるであろうアクシデントの類もあらかた予測がついていた。装備に関しても準備は万全、と思えるほどの余裕があった。そして、計画段階で見通しのついていた4回目の旅はすこぶる順調だった。と書きたかったが、そうはうまくはいかなかったのが「積雪期ロッキー山脈縦走Ⅱ」である。
それは、技術的なことでも、体力的なことでもなかった。これまでつづいてきたモチベーションがとうとう切れてしまったのだった。それにしても前の冬は気合が入っていたな。それにひきかえ今回は……。
「人の一生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があるように長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても鮮明で、どんな些細なことでも心を震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。そのかわりに、しきりに辿ってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる」(『深夜特急』沢木耕太郎・著)。
カナダの旅もやがては終えなければならない。考えれば考えるほどに過去の記憶へと遡っていった。カナダの旅をはじめた4年前へと。
冬の自転車の旅(1995年)
自転車をとめて休もうとするとたちまち全身が凍りつくような寒さに襲われた。カナダ北部ノースウエスト準州のグレートスレイブ湖周辺は、これまで経験したことのない寒さだった。マツ毛のまわりには霜がついているのが自分の目で見える。そのままにしておくと吐く息でマツ毛についた氷の結晶は、どんどん大きくなり視界をさまたげた。低温下でチョコレートがガチガチになることは知っていたが、砕いたチョコレートを食べるとかき氷のときみたいに体の内側から冷えてくるとは知らなかった。
腰をおろして休んでいられるのは数分が限界だった。雨具兼用の一重ゴアテックスのヤッケ、薄手のフリース、オーロンの下着がすべてでスペアはなかった。冬を越すつもりなんてなかったから、オーバーミトンは小物袋をばらして作った。夜は零下40度Cくらいまで下がっていた。シュラフは適合温度は零下7度C用。10年来使ってぺしゃんこで羽毛が寄ってしまって、所どころシュラフカバー状態だった。でも寒いことを除けば夏よりも楽しいことが多かった。
ノースウエスト準州の交通量はきわめて少なく、1日1台だけという例外をのぞいても。田舎町へ至る道路ですれちがう車は1日数台だった。それがさいわいして稀に出会う人との距離は密だった。
「寒くないか。ホットコーヒーあるぞ」
雪まみれになって走っているとほとんどの車がとまってくれた。車に乗っているのはたいがいネイティブ(土着のインディアン)だった。カナダ北部は白人よりもネイティブの方が圧倒的に多い。一見無愛想な彼らはどこへ行ってもみなフレンドリーで、天気の悪い日にいきなりぽんとテントや家に行っても泊めてくれた。
雪があれば場所を選ばずにどこでもキャンプができた。特にノースウエスト準州は全般的にフラットなのでどこでも水にありつけるとはかぎらない。雪のない時季であればちかくにクリーク(小川)のあるところをキャンプ地としてめざして走らなくてはならず、知らず知らずのうちにその日の行動を制限された。積雪季であれば、暗くなったところがそのままその日の宿になる。冬の訪れとともに、あらゆる束縛から少しずつ解き放たれていくような気分が妙に心地よかった。
*
「でも冬の自転車というのはいったいどういう発想?」
それを聞かれるたびに夏の旅を思い出さずにはいられない。旅をはじめたのは95年6月からだった。7月、8月にかけてユーコン準州、アラスカを自転車とカヌーで旅した。これが……、物足りなかった……。ガイドブックでは最後に残された秘境なんて紹介されていたけれど、観光地になっていた。ユーコン河で出会ったのはネイティブたちよりもドイツ人や日本人の方が多かった。
別に浮世離れした桃源郷のようなものを求めていたわけではなかったし、なんだかんだいって楽しんでいたのだが、旅の思い出として残りそうな場所ではなかった。当初考えていたアメリカまで自転車で南下という発想も自然に頭からはなれていった。でも、代わりにどこへ行ったらいいのだろう。ふと思いついたのがユーコンの隣のノースウエスト準州だった。北緯60度以北で北極圏にもまたがり、冬の平均気温がマイナス30度C。
「雪のなかを自転車で? 聞いたことないですよ」
「町と町の間は何百kmとなにもないんですよ。おまけに冬の寒さはハンパじゃないそうですよ」
代わる代わるに聞かされた言葉が、逆に好奇心をふくらませていった。いったい自転車ごときでどうしてそこまで肩ひじ張るのだろうか。だが、そんな悠長な気分に浸っていられたのは初冬までだった。噂どおり楽ではなかった。
11月にもなると、すでに指先のほとんどが凍傷にかかっていた。手作業をするたびにかばいながらだったので、夏のでは数分ですんでしまったテント設営に1時間以上費やされた。ペグを持つと金属部から冷たさが伝わりすぐに手の感覚がなくなる。ペグを一本打つごとに手をたたきつけたり、血のめぐりを感じるまで股の間にはさんだりした。やがて強烈な痛みとともに感覚がもどると、再びペグを打った。
テントに入ってひと息ついたら突然、全身が激しく震えはじめた。凍りつくような寒さにもすでに体が順応していたはずだったが、いつもとちがっていた。真冬にカヌーで沈したときに体の芯から冷えていく感じで、低体温症の初期症状のようだった。すぐにコンロをつけようと思ったがうまくいかなかった。テントの内側は霜がはりついて冷凍庫のようだった。マットもシュラフもウェアも、なにもかもがまっ白に凍っていた。ライターのガスが低温下のため気化しにくくなっていた。服のポケットに入れて冷えた体で温めた。10分ほどしたらようやく小さな炎が浮かんだ。それまでの時間がとても長く冷たかった。
厳しい旅をくり返しているうちに、自分の限界や可能性が少しずつ広がっていくような気がした。同時に、こうしなければ自分の存在を証明できないのかとも思った。この旅は犬の遠吠えだったのか……。
「これ以上悪化させると落としますよ」
数日後に着いたノースウエスト準州州都イエローナイフの病院で、まっ黒に変色した鼻を見たドクターはそういった。やっとやめる口実ができたと少しホッとした。自分の意思とは、しょせんその程度のものだったのかもしれない。
無雪季ロッキー山脈縦走(1996年)
カナディアン・ロッキーと聞いて思い浮かべる光景といえばなんだろう。氷雪をまとった急峻な岩山、氷河、コバルトブルーに輝く湖。もちろんすべてそのとおりであるが、
これらはロッキーのほんの一面にすぎないということを、このときのカナディアン・ロッキー縦走1500kmの旅で知った。ふと日本の山にいるのでは、と思わせるような光景が幾度となく見られた。特に山脈西側は太平洋に面しているため年間を通じて降水量が多い。鬱蒼とした深い森、湿地帯、無造作にのびた木の根っこや深緑色の苔におおわれた地面、朽ちた木の枝、原始の香りただようもうひとつのロッキーがあった。
外国人がめったに訪れないアジアの奥地を旅したときみたいだった。峠を越えた向こうには何があるのか分からない、でもちょっとのぞいてみたい。いざ行ってみたところでやはりなにもない、というのがたいてのパターンであるとは分かっていても好奇心をそそる無形の何かがやどっているはずだ。そう確信したことが、4カ月にわたり入下山をくり返すきっかけとなった。
「よし、こんどはロッキーを歩きまくるぞ!」と意気揚々に旅立ったわけではなかった。これまでの新しい旅が、いつもマンネリから脱したくなって生まれてきたように、カナダ北部の旅が急速に色あせてきたのが始まりだった。凍傷で2カ月間の帰国をはさんで再びノースウエスト準州州都イエローナイフにもどったのは96年3月。だが、この地はすでに過去のものになりはじめていたと気がついた。あの厳冬季の旅がピークだったのだ、思い返したのは北の地がすでに暖かくなりはじめたころだった。すっかり惰性になっていた。
「今のままでいたら、いずれ動き出すことすらめんどうになってくる」
行くところはどこでもよかったのだった。カナダのひろい土地のなかでロッキーを選んだのは、なにげなく立ち読みしたアウトドア雑誌の長距離縦走の記事がきっかけだった。「俺もやってみようかな」
突発的で無計画だなんて横槍を入れられそうだが、きっかけなんてしょせんは思いつきだと思う。情熱が冷めないうちに動き出さなければチャンスは流れてしまう、というのをこれまで何度も見てきたのだった
ロッキーでもっとも印象に残っているのは不明瞭な登山道と徒渉であった。ロッキーのトレイル(登山道)はコンディションのギャップが極端だった。写真集で見るような完璧なほどに整備されているのは全体のごく一部だった。踏み跡が不明瞭になったかな、と思ったころにはすでに分からなくなっていた。踏み跡らしきものが、途切れとぎれにあるのだが、獣道なのか、誰かが迷いこんでつけた跡なのか。それでも地図とコンパスとにらめっこしていると時が解決してくれた。
それよりもやっかいだったのが秋の徒渉だった。9月に入ると急激に寒くなり、ひと月の半分ちかくが降雪に見舞われた。雪のなかで足を水に入れるのは少し勇気がいる。息を止めてつま先からそっとつける。水からあがり濡れた靴で雪の上を踏みしめると、頭がキーンとするような冷たさが足の裏から伝わってくる。止まったら感覚がなくなりそうなので、疲れていてもゆっくりと歩きつづけた。こんなときは標高が下がるにつれて雪は少なくなってゆくのを見ているだけでも嬉しい。
夜は枯れ木をふんだんに集めて焚き火をする。濡れた靴や靴下を火にかざし、紅茶をすすりながらボーッとするこの時間がことのほか気持ちをほぐしてくれる。つくづくきてよかったと思うのは、いつもこうしたなにげない瞬間だった。桃源郷というのは自分の内なるものを通して存在するのかもしれない。
積雪季ロッキー山脈・山スキー縦走 Ⅰ(1998年)
夏山に登って感動した人が自然と冬山をめざすように、「こんどは冬のロッキー縦走」となった。バンフからジャスパーへ500km。問題は寒気よりも積雪量。輪かんでは対処できないであろうことが必然的に山スキーとなった。とはいうもののスキーはこれまで一度もやったことがない。おまけに計画ではデポ地点からデポ地点まで2、3週間の行程である。予備日を含めた食糧や冬山装備一式を担ぐとなれば総重量50kgは超えそうだった。
山スキーに関する入門書の類を何冊か立ち読みしたが、基本パターンや反復練習をくり返すことが長期縦走でどれだけ有効なのか、という疑問はぬぐえなかった。実践で使えるかどうか分からない技術の習得に時間を費やすよりも、いきなりやってしまった方が……。
「スキー経験なしでいきなり1カ月以上の長期縦走? 無謀じゃないですか、いくらなんでも」
経験というもの自体の定義が曖昧に思えたのは、これまたひとつの経験からだった。以前、登攀歴25年を誇りに持つ人と山に行ったことがあった。「山は突っこむだけが能じゃない」と豪語していた彼だったが、初級ルートながら出だしでいきなりスリップしてしまったことがあった。それが偶然のできごとに思えなかったのは、それからも些細なミスが連続したことだ。
彼には技術、体力、精神力、知識、状況判断力といったものが身についていなかったのだ。費やした時間よりも問題なのは内容だと思う。要するに能力がどこまで到達したかであろう。
クライミング以外の分野を知ってからも、同じことは何度か目にしてきた。そんな世界に反発したくなってしまったのは、あるいは自分自身の人生に対する疑問を感じていたからなのかもしれない。
1月下旬、とにかく歩きはじめた。冬山とは思えないほどの好天がつづいていたが、遅々として足どりは進まなかった。好天による気温上昇で雪がゆるみはじめてしまったのである。1時間以上もがきつづけてわずか300m。スキーをつけても腰まで潜ってしまう。2月の尾瀬を輪かんだけで単独縦走したときのペースより遅かった。
「やはりもどろうかな……」
歩きはじめて1週間もしないうちにはやくも弱気になってしまった。
「町にいればいまごろは暖かい部屋で……。はっきりいって目的地である500km先のジャスパーの町まで行ける勝算なんてほとんどない……」
でもどこかで周囲の目というものが自分を支えていた。ここで引きかえしてしまったら、やはり顔向けできない、という思いが常にあった。ひとり旅でいちばんおそろしいのは、自分に酔ってしまって、他人の目が気にならなくなってしまうことだ。
実際、自由奔放や気ままを標榜する旅人を見ていると、だらけて沈んでいっているだけのような気がした。自己満足というのはアルコールの酔いみたいなもので適量を超えると、えてして現実と虚構の見境がつかなくなり、やがて虚構だけの世界へと落ちてゆく。それに周囲の目というものはしばしば自分自身の考えとも一致するものだ。
その日なにげなくテントから顔を出して外を覗くと、プラネタリウムを貼りつけたかのような夜空がせまっていた。星空というのは不思議な作用があるのだろうか。ここへくるまでの精神的な葛藤がとるに足りない問題のように思えてきた。
旅が順調に動き出した後に待っているのは、倦怠感かトラブルかのどちらかである。人のいない雪山でこんなことを思いたくないのは人情だが、これまでの自分の旅はいつもそうだった。ザックを背負うだけで脇腹に激痛が走った。すぐにそれが肝臓結石では、と思ったのは、一冊だけ持ってきた文庫本からだった。ひとりの青年が太平洋単独イカダ横断を試みたものの肝臓結石が原因で遭難しかけ、たまたま通りかかったカツオ漁船に救助され九死に一生を得たという記録である。
「もし漁船に救助されなかったら自決するつもりでした」とこの青年は後のインタビューで語っていた。
肝臓結石がどのくらいヤバイのかは知らなかったが、青年に自決を覚悟させたということは、ほうっておいたら耐えられないほどの激痛におそわれるのだろうか。「肝臓結石になったのも、頻繁に低気圧をくらって、今まで全然痛まなかったのが、ボロボロ落ちてきたのではないか……」と書かれていた。自分の場合は重荷でラッセルしたのが原因だったのか。医学の知識なんて、凍傷と風邪くらいしかなかったことがそっくりそのまま肝臓結石にあてはめてしまったのかもしれない。
とにかく痛みは激しくなるいっぽうだった。痛みに負けてふかふか雪の上を整地もろくにしないでテントをひろげ、雪まみれのままシュラフに入った。寝返りをうつだけで冷や汗が出た。外は小雪がちらついているのが、テントのうすい布地をとおして伝わってくる。大粒の雪のようだった。
「人がいるところまであとどのくらいだろうか。それよりも明日、さらに悪化していたら……」
数日後、病院にて……。
「肋骨にひびが入っていますよ」
担当医はレントゲン写真のその個所を指さした。原因は疲労骨折とのことだった。どっちでもよかった。町に帰れたのだったから……。
*
「やっぱり行くの? 天気がよくなるまで待つ気はないの?」
「ケガの方もまだよくなってないし、ダメだったらすぐに引きかえすよ」
雪景色が見えなくなるくらい大粒の雪が激しく降っていた。それにしても出発の日に大雪が降らなくても……。
町に降りてきてから6週間が過ぎてしまった。冬が終わろうとしている、と思っているうちに、いつの間にか春を感じる季節になってしまった。冬の間は凍結していた川も徐々に解けはじめてきた。
町で静養中、よく晴れた朝、窓越しにうつる雪山を見ても爽快さを感じることがなくなってから何日もたちはじめていた。これ以上町でウダウダするのは、精神的によくないと気づきはじめたのだった。ケガはまだなおっていなかったが。
第三者から見れば愚かな選択にうつっただろう。はたから見たら人生をただ遠まわりしているだけにしか見えないことであっても、本人にとっては大きな意味を持っていることが少なくない。ある人にとっては旅自体がひとつの困難でありそれえを乗り越えることに意義を見いだしているかもしれない。別の人にとってはある種の困難から逃避しているのかもしれない。いずれにせよその人なりに悩みぬいた末に出された結論なのだ。
出発するしかなかったのだ……。
大雪のなかを歩きはじめると迷いは徐々になくなった。
ゴールのジャスパーの町に着いたのは、それから34日後のことだった。今ふり返ってみるとこの時がカナダの旅の頂点だったような気がする。
積雪季ロッキー山脈・山スキー縦走 Ⅱ(1999年)
一面の銀世界、湖も陸地もひとつづきの雪原と化したバンフ国立公園のボウ湖を99年2月に出発。今回のルートは、大半を水系沿いに凍結した川などにとったため技術的に問題となるような個所は前冬とは比較にならないくらい少なかった。ボウ湖~ボウ川~スプレイ川~エルクフォード川と水系に沿って南下。標高とは関係なく南下するほど積雪は増えてきた。
旅とはするどいエッジの上につま先立ちしているときのように不安定で、ちょっと興奮気味な状態を維持しているようなものだろう。緊張感と肉体的疲労をにじませながらあの手、この手でバランスをとりながらかろうじて立っている。旅は厳しくなればなるほど、非日常よりも日常が恋しくなってきてぬるま湯に浸りたくなるものだ。
崩れそうな不安定な精神状態のときほどいい旅を、いい時をすごしていたのではなかったか。
以前読んだ本で、旅イコール日常にはなり得ない厳しい現実があるということが書かれていた。あらゆるトラブルに遭遇し、人とぶつかったりしながら進んで行かなくてはならない。旅とはとてつもなくエネルギーを消費するものである。長距離マラソンのように快調なスタートを切ってもいつの間にかペースはスローダウンし、ついには走っているのか歩いているのか、倒れそうになっているのか分からなくなってくる。やがてはどこかで止めなくてはならない。
そう気づきながらも歩き続けてきたのは、自分なりの新たなる理論を作り出したかったからなのだろうか。ロケーションが変われば、季節が変われば、人の考えなんていともたやすく変わってしまうような気がしたのは、これまでの経験的なことでもあった。
いったいどうしてあんなに気負っていたのだろうか、と自分でもおかしくなってしまうくらい時の流れとともに自分の中のこだわりが消え去ってしまったことが幾度もあった。
試行錯誤しながらも行き着く結論はおよそ決まっていた。
「とりあえず歩き続けてみるしかなさそうだ……」
*
冬から春へと季節の変わり目に入ると、水分を多量に含んだ降雪に見舞われる日がしだいに増え、やがて湿雪からみぞれになった。5月に入ると連日のように冷たい雨の中の歩行がつづいた。雪の季節にはじめた旅は、とうとうやわらかな日差しを感じる季節になってしまったころウォータートン・レイクス国立公園手前の小さな町に着いた。
ゴールはすでに目と鼻の先だというのに、気分はむしろ落ち込んでいた。予想していた達成感などまるでない不思議な感じだった。町にしばらく滞在しているときにふと思った。それにしてもどうしてここまで歩き続けてしまったのだろうか。もはや自分では抑えきれないほどの強迫観念みたいな「しなければ」といった思いが知らず知らずのうちに自分の中にやどりはじめてしまったのではないだろうか。この長い道のりを抜ければ、あの山を越えれば、暗闇の中に差し込む一条の光のように希望に満ちた何かに出会うのではないかと模索している自分の姿をどこかで見たような気がした。「人間死ぬ気になってやれば何でもできる」なんて自分の過去におぼれ、ふんぞりかえっているうちに次にやってくるであろう新しい機会を逃してしまう。自信や誇りを持ってしまったら、あらゆる可能性はそこでストップしてつぃまうだろう。
一人の人間がその人なりに努力して何かを成し遂げたところで、冷めた目で見れば、客観的に見れば、たいてちのものはたかがしれているものだろう。
人は生き物としての寿命を迎える前に精神が死ぬという。情熱もやがては冷める。登攀をやっていたころも、アジアを放浪していたころも、自転車旅でもそうだった。
「ひとつの汐どき」を見きわめるときから、新たなる旅がいつもはじまっていた。そのことに気づいたのは、登攀に見きりをつけてから、かなりの年月がたってからだった。
99年5月20日、アメリカとの国境ウォータートン・レイクス国立公園に到着した。北極海沿岸イヌビックからユーコン準州、ノースウエスト準州、ロッキーへの、自転車、徒歩、カヤック、山スキーでの合計1万5千kmのカナダ縦断の旅……。ふり返る余裕ができたのは、ひとつの旅が確実に終わろうとしていたからなのかもしれない。足かけ5年におよんだ旅は、かろうじてカナダ縦断という軌跡を残すことができた。準備段階での不備や自身の能力的問題から計画変更を余儀なくされたことが幾度となくあった。もし冬を越せる装備があったなら、もしスキー技術を身につけてから山に入っていたならば……。
過ぎてしまった人生を仮定法で語るのは、フェアではない。それでもあえて自身に問いかけてみたい。もし、自分の考えや行為が周囲から受け入れられていたならば、自分は果たして動きだしたであろうか。
これまでの旅を支えてくれたのはいったい何だったのだろうか。あるいは誰だったのだろうか。
『岳人』2000年2月号に掲載