冬季カナダの旅
木枯らし吹く季節になると冬季カナダ遠征の準備がはじまる。冬のカナダ通いはかれこれ七回目になる。毎年トライしつづけるのは、やはりいまだに満たされぬ思いにとらわれているからであろうか。
意気揚々と旅から帰ってきたことは一度もない。予定どおりにいかないときは、自分の体力的、精神的、技術的な弱さを痛感させられる。いっぽう、成功したときには、自分の企画が甘いからできてしまったのでは、と悔恨の情にも似た思いが残る。いずれにしても無事帰れる喜びと同時に悶々とした思いにつつまれる。
極北カナダの旅はそれなりにしんどい。最低気温マイナス四十度Cはざらである。細心の注意を払っても、大自然の猛威にはあっけなく負けてしまう。皮膚が焦げ茶色に変色し切断寸前の凍傷を患うのも、毎冬恒例になってしまった。重いザックを担ぎ背丈以上も積もる雪のなか、ラッセルをくり返しているうちに知らぬ間に疲労骨折し、誰もいない山中で死の不安にかられたこともあった。ひとたび山に入れば、動物以外の生き物に会うことは稀である。何日もずっと一人。奥深い山中でテントのなかで何度も同じことを思った。
「今回もまた背伸びした計画を立ててしまったな。町にいれば今ごろは暖かい部屋で美味しいものが食べられるというのに、どうしてまた来ちゃったんだろう……」
性懲りもなく幾度となく出かけてしまうのは、山のなかに宿る不思議な引力にひかれてしまうからなのだろうか。実際、厳しい自然条件のなかに身を置くと、妙な充足感につつまれるやさしい時間にしばしば出会う。テント設営、炊事、ライターで火をつけるといった日常では気にもとめないようなささいなことも、山では生きるための行為に変わる。一日の行動を無事終え、コーヒーを飲みながらローソクの明かりで日記をつづっているとき、妙に落ち着いて満ち足りた自分に気づいたりすることがよくある。きっと厳しい自然条件のつくりだす恩恵なのだろう。
けれども、旅を終えたあとに起こる達成感を感じることはあまりない。ひょっとしたら無意識のうちに旅の余韻を掻き消してしまっているのかもしれない。ひとつの自信を手にしたときを境に、以前にも増して上昇する人と、堕落していく人がいる。自分なりに時間、資金、労力など、あらゆる投資をして何かを成し遂げ感激したところで、他の人にとっては、いとも簡単にできてしまったというのはよくある話である。
ひとつの成功を機に堕落してゆく人をこれまで幾度も見てきた。「人間やれば何でもできる」と過去の自分にしがみついているうちに時はどんどん流れてゆく。過去の失敗にとらわれているうちに、次にやってくるチャンスを逃してしまう。成功もまた同じこと。次の段階に進むことなしに、果たして成功したと、あるいは達成したと言えるだろうか。現在および未来に進んでこそ、過去の実績と呼べるであろう。飲んだ席の自慢話にとどまる程度のサクセス・ストーリーならば、そんなものは捨てた方がマシである。
自分にとって最終目標はない。ひとつの目標が終われば、必然的に次が現れるのだから。わたしのこれまでの経験では、やればやるほど自信をなくした。追求すればするほど壁は高まった。旅立ち前には決まって「自分はほんとうに冒険を求めているのだろうか」というジレンマに悩まされる。そして計画を無事終えると、また別の壁にぶつかる。自分は果たして極限まで努力したのであろうか、と。だがしかし、こうした迷いこそが新たなるチャンスを出会いを導いてくれているのではないだろうか。自分の考えが正しいと確信しないかぎり、迷いがなくならないかぎり、多くのチャンス、多くの可能性も尽きることなく広がってゆくように思う。
『山がくれた百のよろこび』(山と溪谷社)に掲載