岩登りがつまらなくなった理由のひとつに限定があった。
あれ使ったらダメ、これ使ってもダメ。
モラルというよりもコミュニティによる凝り固まり。
自転車旅のコミュニティでも。
冬はダメです、雪のなかはダメです、真夏の砂漠もダメです。
だからスキーをはじめるときは、コミュニティから距離を置いた。
滑る自信がなければ担いで降りればいい。だいじょうびそうなら岩場でも滑ればいい。
骨折したら這って降りればいい。
ようやく自由になれた。なによりも楽しかった。
そこで終えれば、まるく収まる。
オイラの欠点は、あるていど成果が出るとまた凝り固まったコミュニティにちかづいて結果発表して、言わなくてもいいことまでいってしまうことだ(笑)
やっぱりやらずに終えたら死に際になって後悔するのか。
もしかしたら一生気づかずに井の中の蛙でいたほうが、しあわせなのか。
昨今の登山界、場違いともおもわせる人がたくさん出没している。
山などほとんど行ったことないような(ツアー登山が中止にならないていどの山行しか経験ない)人たち。
でも発生してきて生存しているということは、何か意味はあるのだろう。
その意味について考えてみるのもおもしろいかもしれない。
一昨日、高尾山でのマン・ウォッチング。
高価な登山靴やウエアで身をかためた、いわゆるお手本の格好をした人ほど、映画『八甲田山 死の彷徨』みたいに生と死の分岐点をおもわせる歩き方をしていたよ。
ヤンキーが街からそのままやって来ちゃったみたいな人のほうが、元気で楽しそうに歩いていたよ。
えっ、軽装でもし何かあったらどうするのかって?
想定外のときって案外ちゃらちゃら組のほうが強かったりする。
中学生のとき丹沢や南アルプスをひとりで歩いていた。
いまみたいに山の景色の記憶は皆無。
山でいちばんの楽しみは、ほかの登山者から山の話を聞くことだった。
まだ丹沢しか知らなかった自分にとって、どんな山の話も新鮮だった。
山の難度という概念すらなかったあのころ。
山も人も純粋に輝いていた。
・台風直撃や猛吹雪だと行きたくなりますよね。
・サンダルにかぎりますよね。
・承認欲求より自己実現ですよね。
なぜしてくくりたがるんやろ。
幅広い選択肢があっていい。
むかしといまと、いっとることがちがってもいい。
自分の山って誰かにくくられてしまったとたん、色褪せてしまう。