一般的に孤高の人を目にする機会って、たいていメディアを介している。
多くの人たちが一生目にすることのない孤高の人も存在する、という認識をもつ人はきわめてすくない。
山での事故死のニュースを聞くたびに考えさせられる。
死の領域まで踏み込めず、半世紀以上ものうのうと生きてしまったオイラの行動や言葉に、果たして何の意味があるのだろう。
いや、そうした微妙な立ち位置(視座?)から発する声だからこそ意味も生まれるのではないか。
志半ばに果てたアルピニストに合掌。
やっぱり若いときにやってみたかったことを無理してでもやってよかったのかな。
あるいは夢は夢のまま残しておいたほうが、もしかしたら頭のなかでイメージできる世界はもっと自由で大きくなっていたのだろうか。
選択しなかったほうの道って、どうしても都合よく考えてしまったりする(笑)
岩登りがつまらなくなった理由のひとつに限定があった。
あれ使ったらダメ、これ使ってもダメ。
モラルというよりもコミュニティによる凝り固まり。
自転車旅のコミュニティでも。
冬はダメです、雪のなかはダメです、真夏の砂漠もダメです。
だからスキーをはじめるときは、コミュニティから距離を置いた。
滑る自信がなければ担いで降りればいい。だいじょうびそうなら岩場でも滑ればいい。
骨折したら這って降りればいい。
ようやく自由になれた。なによりも楽しかった。
そこで終えれば、まるく収まる。
オイラの欠点は、あるていど成果が出るとまた凝り固まったコミュニティにちかづいて結果発表して、言わなくてもいいことまでいってしまうことだ(笑)
やっぱりやらずに終えたら死に際になって後悔するのか。
もしかしたら一生気づかずに井の中の蛙でいたほうが、しあわせなのか。
昨今の登山界、場違いともおもわせる人がたくさん出没している。
山などほとんど行ったことないような(ツアー登山が中止にならないていどの山行しか経験ない)人たち。
でも発生してきて生存しているということは、何か意味はあるのだろう。
その意味について考えてみるのもおもしろいかもしれない。