数値化や言語化されないと掴めない人って、努力(勉強)は人一倍しとるのかもしれんけどハッキリ言って地頭がめっちゃ悪いんとちゃうか。
夏には行けるようになるといいな。
もちろん騒動がおさまらなくても麓から歩いていくことはできる。
でもそういう問題じゃない。
自身のなかで大きな違和感を抱えたまま山に行っても楽しくない。
今後どうなるかわからないけど、行けるようになるという前提で考えていきたいな。
何度も訪れている場所でも、きっとこれまでとはちがった印象が残るだろう。
「能力の差は小さいが努力の差は大きい」
たしかにそうだけど、しょせんはある程度のところまでだったりする。
ある程度のところまでやってくると、そううまくはいかない。
「能力の差は大きいが努力の差は小さい」
そう話が変わってしまったりする。
そもそも努力するったって人には限界がある。
限界超えれば死んじゃう。
あるいは精神が破綻する。
そんなの一般的でないといっている人は、しょせんそこまでで終わる。
ドライかつシビアな現実の壁にぶち当たっても、受け入れていく人が能力があるってことになるのだろうか。
だからやっぱり能力のある人ってきわめて少ないってことになるのかな(笑)
四十代前半から体力がガタ落ちした。
そういっても具体的に歩く速度が急激に遅くなったとか荷物がまるで担げなくなったとか、リアルに体感できることとはちがった。
毎冬似たような旅や山をやっていながら、四十代前半を境に凍傷やらケガやら故障が格段に増えた。
裏を返せば、体力のガタ落ちが原因に思われる。
いっぽうで四十代前半を境に、自分のやってきた旅や山が変化してきた。
それまではどこどこまで到達するといった地理的な、つまり対外的な意味での場所がゴールだった。
四十代前半からは自身のなかでひとつの節目と感じる地点、つまり内面的な意味で納得のゆく地点がゴールとなった。
どちらが大変かと訊かれても、それぞれちがった意味で大変だ。
どちらが楽しいかと訊かれても、それぞれに味わいがある。
いまふり返ってみるとあえて意識したわけではない。
なんとなくそんなふうに流れていった。
ただひとつ言えるのはやはり四十代前半で体力がガタ落ちした時点で旅や山における価値基準を変換していったからこそ、五十代半ばのいまでも旅や山を継続できているのではないかと思う。
ここ数年やっていることが地理的な意味でいったら毎回敗退どころか惨敗つづきだけれど、自身のなかではなかなか楽しめているし手応えすら感じている。
ただどこへ行きましたかとかどこを登りましたかといった対外的な成果だけに興味を示す人とは、ますます会話が成り立たなくなってきているのはたしかだ(笑)
経験がないほど知識も技術もないほど、大胆に行動できる。
でも経験がないほど知識も技術もないほど、事故りやすいし死ぬ確率は高い。
経験が増えるほど知識や技術が増えるほど、大胆な行動ができなくなる。
人はオトナになるほど弱くなる。
それら両者の境界線が、その人の頂点になる。
登山の技術や知識をこと細かに訊いてくる輩ほど、体力がぜんぜんねえ。
小手先のテクニックよりまずは体力がないと、技術も知識も生かされねえ。