最近の登山者もガイドもどうしてレインウェアの防水機能やテントの耐風性とかに、ぐだぐだぐだぐだぐだクソうるせえんだよッ!
どうせ大雨だったり台風だったりすれば、すぐに山降りちまうんだからぜんぜん関係ねえじゃんかよッ!!
記事を書いた。
「ひとりで歩く山7選」
包容力にも似た山のやさしさとつねに死のリスクを内包している山のシビアさ。
そうした山への思いを立山周辺に点在するボルダー散策に絡めて書いてみたよ。
↑なんだかよくわからないでしょ(笑)
◆
詳細はこちら。
↓クリックすれば読めちゃう(笑)
https://www.gakujin.jp/menu105/
どうせ世の中の価値観なんてころころ変わる。
だったらそれに合わせるより自分を貫いたほうがよくね。
『アート・オブ・フリーダム 稀代のクライマー、ヴォイテク・クルティカの登攀と人生』(恩田真砂美・訳)
クルティカといえば、、、
チャンガバン南壁、ダウラギリ東壁、ガッシャブルム4峰西壁、トランゴ・タワー東壁、チョ・オユー南西壁、シシャパンマ南西壁、フリークライミング5.13のフリーソロ、、、
数々の世界最難ともいえる登攀を成功させていながらも、こんな言葉を残している。
「実は自分は弱かったのです」(1995年ナンガ・パルバットのマゼノ・リッジの試登にて)
いったいどれだけ高い意識やねん。
ほかの登山者やクライマーはどうなっちまうんやねん。
クルティカの行為は登山というよりも哲学といったほうがしっくりくる。
たとえ誰からも称賛されなくても、自身の哲学にもとづいて「苦しみの芸術」を追求する。
クルティカの軌跡をみると「完成」という言葉すら陳腐におもえてくる。
ところでクルティカとは対極の大衆を意識した伝えることを前提にした登山や冒険には価値がないのだろうか。
そんなことはない。
そもそもクルティカの求道者的な行為と大衆を意識した伝えることを前提にした登山や冒険とでは役割がまるでちがう。
物理学を例にするならば、研究に没頭する学者と人気の予備校講師みたいなもの。
ともに必要とする人たちがいる。
だいたい世の中がクルティカみたいな人ばかりになってしまったら社会が成り立たなくなるぜよ(笑)
誰もがクルティカのような高貴な登攀をめざす必要もないし、めざしたところでその人が納得できる登攀や人生が送れるとも思えない。
どんな道にすすむにしても周りがなんて言おうが事情に通じている人がなんて言おうが頭脳明晰な人がなんて言おうが、自分を貫けばいい。
クルティカの生きざまを通してそんなことをおもった。
連休中の日本の人気の山って、まさにクレイジージャーニーの世界じゃない。
だって畳一畳に3人とか4人とかで寝る。
トイレが1時間待ちだとか。
槍ヶ岳の穂先が大渋滞で往復4時間だとか。
クソ・オヤジどもはやたらキレまくる。
おまけにヘタレ登山者ときたら恐怖とパニックであり得ないムーブでクサリ場やハシゴを登る。
ハッキリ言ってアレックス・オノルドのエルキャピタンのフリーソロやヴォイテク・クルティカのヒマラヤの氷壁登攀よりも遥かに、いつ落ちて死んでもおかしくない登り方しちょるよ。
クレイジージャーニーに出演した人を何人か知っとるけど、みなトイレくらいゆっくりするし寝るにしてもせめて畳一畳くらいのスペースは確保する。
登り方にしたってみなきわめて精神も身体も安定して登る。
さらに山とか自然のなかではみないたって穏やか。
それ考えてみると、、、
やっぱり連休中の日本の人気の山ってクレイジー三昧でござるよ。
海外のバラエティ番組とかで放送したらどんな反響があるのかな(笑)
単独で山に行って事故るとバカのひとつ覚えのごとく、「単独=(イコール)危険」を信じこんでしまう頭でっかちんが少なくない。
危ないヤツってパーティで行ったってお金払ってガイドと行ったって、けっきょくは危ないし悲しい結末を招くんじゃない。
雑誌に登場するガイドでも、口先だけでスキルは素人以下ってのも五万といるぜよ!
中身で判断できねえからこそ危ねえんだよ!!