つぎになにをやるんですか?
そう肯定的に訊かれた時点で、自分にとって意義はうすくなってしまう。
他者がとりわけ中途半端な努力型が、自分の発想や行動になんらかの違和感を抱いた時点で、すくなくとも自分にとってひとつの意義が生まれる。
それにしても型にハマりきった思考しかできない輩があまりにも多すぎるよな。
山に行ったら山頂踏まなきゃいけないとかさぁ(笑)
雷鳥沢でテント張ったら台風やり過ごさなくちゃいけないとかさぁ(笑)
朝の森。
ここ数年、鳥のさえずりを聞きながらゆっくり歩くだけで満たされるようになってきている。
(きのう撮った写真)
話してみないとわからないよ。
そうよくいわれる。
でもヘタに経験していたりヘタにお勉強ごっこしていたりしている人ほど、話してもまったくといっていいほど通じなかったりする。
凝り固まっているからなのか。
なぜ話が通じないのか分析するのは、けっこうおもしろい。
これまでの人生をふりかえって。
もうすこし粘ったらできたかもしれないってあんまりない。
それより、もっとはやく見切りをつければよかったなっていうほうが多い。
夜の桜を観ながらそんなことをおもった。
昨夜読んだ本。
『彼女たちの山 平成の時代、女性はどう山を登ったか』(柏澄子著)
まずオイラがかろうじて山に行っていたのは昭和の終わりの2シーズンくらい。
平成の時代の山のはなしは、雑誌かSNSくらいでしかわからない。
面識があっても挨拶くらい。
だから自分にとって平成の登山はあくまで傍観者。
かんじたこといろいろ。
昭和の登れる女性クライマーはほぼ身なりに無頓着だったけれど、平成になると身なりに無頓着な登れる女性クライマーが激減した。
昭和のころ「男についてこれない女は山に行く資格なし」と凝り固まった考えの男が、平成になると激減した。
昭和の時代は登山関連のコミュニティが閉鎖的だったけれど、平成になると風通しがよくなった。
ただ風通しがよくなった弊害として、山の世界には場違いではないかとも思われる人たちがそれなりに紛れ込んでしまった。
女性が変化したのか全体が変化したのか。
平成を読むことで昭和が見えてきた。
この本を読みながら、オイラは山の世界からすっかり遠く離れてしまったなってあらためておもった。
ちなみに昭和の時代、この表紙のようなカラフルなウェアはなかった。
世の中、ほんとうにこれがやりたいなんていう人っていくらもいないんだろうな。
ほんとうにやりたいことがある人って、恵まれていなくても実行する。