誰かの新しい試みに対して、いい顔を示さないのは昔っから。
日本の社会や組織。マニュアル・バカ系クソ・ガイドや自称・山のベテランのクソ・オヤジたち。
ちょこちょこっとかじってあとはふんぞり返って余生を過ごす。
机上登山だけで人生の幕を閉じる頭でっかち。
そういう輩には、これからもずっとずっとブレずに保守的な姿勢を死ぬまで貫いてほしい。
そうした背景があることによって、冒険的行為の意義が生まれてくる。
山小屋で飲んだくれて俺が俺がとかやればできるとか豪語するクソ・オヤジやクソ・ガイドって、どうしてピオレドール賞とか受賞しないのだろう、、(笑)
ついつい誰かに語りたくなる思い出がある。
しまっておいたほうが色褪せない思い出がある。
正論棒をふりかざしたところで何もやらなきゃ意味ない。
ここ数年、がんばらない登山がことのほかおもしろい。
(もともとあんまりがんばらなかったけれど(笑))
あらゆるものを犠牲にして前へ前へすすむ登山とおなじくらい、がんばらない登山もおもしろい。
でも誰かから価値観を強要されたような登山は、ゆるゆるでもストイックでも評価されなくても高く評価されても、やっぱりおもしろくない。
努力は報われない。
そう解釈したほうが辻褄が合ったりする。まわりを見るかぎり。
周囲から小バカにされようが孤立無援になろうが、前に進む以外に生きる道はない。
そのくらいの心意気で取り組んでいる人は、有形無形なんらかのものを掴んでいる。これまたまわりを見るかぎりそうだ。
精進することを否定しているのとはちがう。努力という言葉の裏には、自身が納得するためというよりも他者に認めてもらいたくて嫌々何かをやるという意味合いが大きいような気がしてならない。