『八甲田山死の彷徨』についておもう。
ガチガチなくせにいざとなると使い物にならない(判断を誤る)上官のおかげで、無駄死を強いられたといえなくもない。
上官とは現場にはいなかったけれど直属の上司もふくめて。
このはなしは、冬の八甲田山という場所にもかぎらないし軍隊という組織にもかぎらない。そして明治という時代にもかぎらない。
もしかしたらいまもどこかでおなじことが起きているかもしれない。
ここ数年、欲求の器が小さくなってきているのをかんじる。
体力気力の低下ももちろんあるけれど、それよりも若いときからやりたいことはやってきたからだろう。
もし仮に若いときにやりたいことよりも周囲の目を判断基準に何かをやっていたら、承認欲求のために振りまわされていたような気がする。
そしてあえてやりたいことがなければ、それは現状に満たされていることなのだろう。
自分で異端児っていっている人って、たいてい主流派なんだよな(笑)
よくまわり道をしたことを後悔したりする。
いっぽうでまわり道をしたからこそ悔いがなかったりもする。
十代からやりたいことやってきた自分に、五十代後半になっていまさらつぎなにやりたいですかなんて訊かないでくれよな。
やりたいことがあるなら体力気力のある若いころのほうが可能性あるっていう前提をどうとらえとるんやろなぁ。
やればできるっていっている人って、たいてい受け身型の努力をつづけていればいつか辿り着く、というところで夢の世界に引きこもってしまっている。