表舞台から突き落とされるのはたしかに悲惨。
でも俺が俺がといいつつ表舞台とは無縁でちっぽけなコミュニティで人生の幕を閉じるほうがもっと悲惨だ。
30年ぶりか40年ぶりかで来た。
若いころロープなしで登っていた自分が信じられない。
昨夜読んだ本。
(ひさびさに再読)
『日本登山大系 南アルプス』
南アルプスは甲斐駒ヶ岳の岩壁の登攀を除けば1回しか行ったことがない。
中学生のときの夏、ひとりでテントで甲斐駒ヶ岳から聖岳までの縦走。
縦走そのものは歩けば目的地に着く。
登山道を行くだけで道に迷うことはない。
むずかしさはない。
(昨今のYouTubeやSNSが大げさすぎる)
その縦走で印象深かったのは、南アルプス南部(静岡県北部)。
林道の長さ、人里までの遠さ、つまり「山の奥深さ」だった。
三十代のころ、冬のカナダのロッキー山脈の長期縦走をテーマにとりくんでいたときも、アプローチの長い、つまり林道の長いコースどりをしぜんに選択していた。
五十代後半になった最近は、やっていることはスゴいわりに一般的に知られていない登山家の足跡を調べている。
南アルプス南部(静岡県北部)を舞台に、ボリュームある記録がいくつかある。
代表的なものに、、
ウェットスーツ製の渓流足袋をかつぎ上げ厳冬の大井川源流の沢登り。アプローチの長さから1本の沢だけで10日から2週間費やす。
ほかにもいろいろあるが諸事情により割愛。
中学生のときの数日間の体験が「山の奥深さ」というひとつのキーワードとして、自身の登山の価値基準となって定着しちゃったのかもしれない。
本を読み返しながらそんなことをおもった。
山での事故死のニュースを聞くたびに考えさせられる。
死の領域まで踏み込めず、半世紀以上ものうのうと生きてしまったオイラの行動や言葉に、果たして何の意味があるのだろう。
いや、そうした微妙な立ち位置(視座?)から発する声だからこそ意味も生まれるのではないか。
志半ばに果てたアルピニストに合掌。
岩登りがつまらなくなった理由のひとつに限定があった。
あれ使ったらダメ、これ使ってもダメ。
モラルというよりもコミュニティによる凝り固まり。
自転車旅のコミュニティでも。
冬はダメです、雪のなかはダメです、真夏の砂漠もダメです。
だからスキーをはじめるときは、コミュニティから距離を置いた。
滑る自信がなければ担いで降りればいい。だいじょうびそうなら岩場でも滑ればいい。
骨折したら這って降りればいい。
ようやく自由になれた。なによりも楽しかった。
そこで終えれば、まるく収まる。
オイラの欠点は、あるていど成果が出るとまた凝り固まったコミュニティにちかづいて結果発表して、言わなくてもいいことまでいってしまうことだ(笑)
昨今の登山界、場違いともおもわせる人がたくさん出没している。
山などほとんど行ったことないような(ツアー登山が中止にならないていどの山行しか経験ない)人たち。
でも発生してきて生存しているということは、何か意味はあるのだろう。
その意味について考えてみるのもおもしろいかもしれない。