三度の飯より山が好きです!
そういってる人ほど、山での飯が粉になったカロリーメイトだったりすると嫌な顔をする。
やっぱり植村直己に憧れて山とか冒険とかやってるんですか?
そう問うてくるのってすごく浅くねえ。
もちろん植村直己に憧れる人が多のはたしかだけど。
植村直己だけじゃないから。
医学部に進学した人に、野口英世の伝記を読んだのがきっかけですかっていちいち訊くようなもんだろう。
なんでもかんでも誰でも知ってるような著名人に絡めねえでほしいなッ!!
「ねえ、経験者ってどういう人たちのこと?」
「頭が固くって新しい試みに対する臆病者のことだよ(笑)」
植村直己が厳冬マッキンリーに消えてから35年になる。
(1984年2月12日に単独登頂に成功したのち行方不明)
遭難の原因はいまだに定かでない。
さまざまな憶測が飛び交う。
ノンフィクション作家の角幡唯介は、年齢的な焦りではないかと推測する。
植村直己が亡くなった43歳という年齢は、説明するまでもないが体力は低下しはじめる。
これまでに数々の業績を残してきたけれど、それでもやりたいことやできていないことはまだまだある。
そうした焦りがあるからこそ、身体を動かしていないと不安になったのではないかと。
植村直己の亡くなった43歳を10年越えて53歳の自分も、スケールこそちがえどいまかぎりなく似た心境になっている。
自分の身体の故障がどんどん増えてゆく。
こんなはずじゃなかったのに。
山に入る度にそう痛感する。
だからといってどうすることもできない。
激しく行動しているときだけ一時的に年齢的な焦りから解放される。
身体を動かしていないとさらに不安になる。
悪循環のはじまりであることはわかっていながら、やめることはできない。
※なお角幡唯介のコメントは、ビーパルの記事を参照
目標があると、それなりに高いところに到達できる。
目標なんて枷などないほうが、もっと上まで行けてしまうこともある。
かなり大ざっぱな比較。
日本人とカナダ人との登山における価値基準の話。
たとえば日本人だと山頂に立てなかったときにもったいないとよく言う。
せっかくあそこまで行ったのに。
それに対してカナダ人だと自然のなかにいるのに、あくせくすることをもったいないと表現する。
登らなくても幸せといえるのに。
(くどいようだけれどあくまでも超大ざっぱに見ての話だよ)
(じっさいには日本人にもカナダ人にも各々のタイプが居る)
日本の山(自然)とカナダの山(自然)とおなじくらいの時間を過ごした自分のなかには、気づかぬうちに2つの軸ができてしまったようだ。
ひとつは厳しい自然や自己と対峙して、それらを克服してゆくよろこび。
もうひとつは雄大な自然のなかでのびのびと旅をして、ときおり感じるやさしい時間。
この2つが自分のなかでとくに対立することもなく、ごくしぜんに座っている。
そうした2つの軸で行ってきたのが、これまでの自分の山旅の軌跡である。
だから一行では語れない(笑)