時間とお金とエネルギーを注ぎ込んでそこまでやってきたことを捨てるのはもったいないと考えるよりも、必要以上に過去にとらわれるほうがもったいない。
誕生日祝い、ありがとう。
メール、メッセージ、タイムライン、その他いろいろ。
きょうで55歳。
まさかこの歳まで生きれるとは、、、
毎年、誕生日の度にそう痛感する。
そういえばきょうは沢登りに行くはずだったけれど止めた。
大雨による大幅な増水が予測されたのと、ここ数日風邪っぽくて喉が痛いのとで。
怖いと思ったら止めればいい。
これまでにもドタキャンはしょっちゅう。
長生きの秘訣は、優柔不断にあるのかな。
剛毅果断だとあるていどのところまでは強さを維持できても、ある日突然ポキッと折れてしまったりする。
強さと弱さって、もしかしたらかぎりなく近いのかもしれない。
長所は短所、短所は長所。
これからもそのときの自身の心の声に耳を傾けて動いていこう。
夏には行けるようになるといいな。
もちろん騒動がおさまらなくても麓から歩いていくことはできる。
でもそういう問題じゃない。
自身のなかで大きな違和感を抱えたまま山に行っても楽しくない。
今後どうなるかわからないけど、行けるようになるという前提で考えていきたいな。
何度も訪れている場所でも、きっとこれまでとはちがった印象が残るだろう。
四十代前半から体力がガタ落ちした。
そういっても具体的に歩く速度が急激に遅くなったとか荷物がまるで担げなくなったとか、リアルに体感できることとはちがった。
毎冬似たような旅や山をやっていながら、四十代前半を境に凍傷やらケガやら故障が格段に増えた。
裏を返せば、体力のガタ落ちが原因に思われる。
いっぽうで四十代前半を境に、自分のやってきた旅や山が変化してきた。
それまではどこどこまで到達するといった地理的な、つまり対外的な意味での場所がゴールだった。
四十代前半からは自身のなかでひとつの節目と感じる地点、つまり内面的な意味で納得のゆく地点がゴールとなった。
どちらが大変かと訊かれても、それぞれちがった意味で大変だ。
どちらが楽しいかと訊かれても、それぞれに味わいがある。
いまふり返ってみるとあえて意識したわけではない。
なんとなくそんなふうに流れていった。
ただひとつ言えるのはやはり四十代前半で体力がガタ落ちした時点で旅や山における価値基準を変換していったからこそ、五十代半ばのいまでも旅や山を継続できているのではないかと思う。
ここ数年やっていることが地理的な意味でいったら毎回敗退どころか惨敗つづきだけれど、自身のなかではなかなか楽しめているし手応えすら感じている。
ただどこへ行きましたかとかどこを登りましたかといった対外的な成果だけに興味を示す人とは、ますます会話が成り立たなくなってきているのはたしかだ(笑)
経験がないほど知識も技術もないほど、大胆に行動できる。
でも経験がないほど知識も技術もないほど、事故りやすいし死ぬ確率は高い。
経験が増えるほど知識や技術が増えるほど、大胆な行動ができなくなる。
人はオトナになるほど弱くなる。
それら両者の境界線が、その人の頂点になる。
登山靴の性能にやたらうるせえ輩って、たいていサンダルでも行けるような山しか行かねえ(笑)