田中幹也・エッセイ&紀行文

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1995年以来、14回におよぶカナダ遠征の紀行文、エッセイをまとめたもの。今考えていることとの違いなどもあるが、当時の心境をストレートに表現するため、あえて原文のままにしてある。

 

カナディアン・ロッキー冬季単独縦走(『達人の山旅1』(みすず書房、20058月刊)に掲載)

冬季カナダの旅(『山がくれた百のよろこび』(山と溪谷社)に掲載)

2002年 冬季カナディアン・ロッキー南部縦走1200km (『山と渓谷』20033月号に掲載)

1995〜99 冬季カナダ縦断1万5000km (『岳人』20002月号に掲載)

 


 

カナディアン・ロッキー冬季単独縦走

 成功とは幸福への入口なのだろうか。それとも不幸のはじまりなのだろうか。成功の喜びはアルコールの酔いに似ている。適量ならば人生の味付けになるが、度を過ぎるとマイナスに作用し、墜ちていった人間を私は今まで何人もみてきた。

 毎冬、寒い季節になると、冬のカナダ遠征の準備をはじめる。冬のカナダ通いは、かれこれ八回目になる。

 なかでも冬のカナディアン・ロッキーは七年連続で通っている。はじめのころから毎冬通い続けようなどと気負っていたわけではない。最初に訪れたときは旅の通過点くらいにしか思っていなかった。せいぜい一カ月もあればじゅうぶんだろうと。それがいつしか、来冬も、来冬も、となって今日に至っている。

 一回のカナダ行きがまる一冬を費やすので、いつしか延べ滞在は一〇〇〇日を越え、山スキーや徒歩で踏破した距離は五〇〇〇キロを超えてしまった。内容は以下のとおり。

 九五年 冬季カナダ北部 自転車七〇〇〇キロ

 九六年 カナディアン・ロッキー中部 徒歩一五〇〇キロ

 九七年 冬季カナディアン・ロッキー中部 自転車一五〇〇キロ

 九八年 冬季カナディアン・ロッキー中部 山スキー五〇〇キロ

 九九年 冬季カナディアン・ロッキー南部 山スキー八〇〇キロ

 〇一年 冬季カナダ東部 自転車一二〇〇キロ

               冬季カナダ・セルカーク山脈(敗退) 山スキー

 以降、冬季カナディアン・ロッキー二二〇〇キロ踏破を目標にする。

 〇二年 冬季カナディアン・ロッキー南部〜中部  山スキー一二〇〇キロ

 〇三年 冬季カナディアン・ロッキー北部を偵察

 〇四年 冬季カナディアン・ロッキー北部 山スキー(膝の故障により一〇〇キロ地点で断念)

 なぜ、これほどハマってしまったのか。はじめの頃は無我夢中で足を運んでいた。これまで国内外の山もたくさん訪れたけれど、気がついたらカナディアン・ロッキーだった。

 カナディアン・ロッキーといわれてもピンとこない人が多いかもしれない。私もそのうちの一人だった。思いつくものといえば夏は観光地、冬はスキー場くらいのもの。それらは全体からみればほんの一部。カナディアン・ロッキーを語るには少々説明が要りそうだ。

 カナディアン・ロッキーはカナダの大陸分水嶺を成し、南はアメリカ合衆国国境から、北はユーコン準州境まで、全長約二〇〇〇キロの長大な山脈。最高峰は四〇〇〇メートルに満たないが、高緯度ゆえに気象条件は過酷だ。厳冬季には麓の町でもマイナス四〇度を下まわることもある。観光客やスキーヤーで賑わうのは、一部の山麓および周辺に限られる。山小屋がほとんどないためか入山者は少ない。長期縦走には格好のフィールドであるにもかかわらず、実践する人はきわめて稀だ。

 一九八八年、イギリス人のクロス・タウンセッドは、一夏(四カ月)を費やして、南端から北端まで踏破している。歩行距離は二二〇〇キロ。冬季にそれを踏破した記録は未見である。

 冬の長期縦走となると、ほとんど処女地にちかいのではと思われるほど、一部踏破の記録ですら少ない。どこでもいいから、冬のカナディアン・ロッキーを一カ月くらい歩いてみれば、「冬季初踏破」あるいはそれにちかい記録となる。雄大なスケールとすばらしい景観にもかかわらず、あまり注目されていないエリアのようだ。

 冬のカナディアン・ロッキーは二つの魅力を内包している。一つは、ただそこに居るだけで癒される自然の神秘。人手に荒らされていない原始の香り漂う世界。山脈全体がほぼ本州に匹敵するという雄大なスケール。山小屋もほとんどないカナディアン・ロッキーで人に会うのは稀だ。雪の上に残されたムースやクマのわずかな足跡だけが生き物の気配を感じさせている。静寂につつまれた森のなかから聞こえてくるのは、しんしんと降りしきる雪の音だけ。遙か彼方に連なる山並み。一山越えても、その向こうには雪原が果てしなくつづく。

 ひたすら歩きつづけ、ふと周囲の景色に目をやると、訳もなく満たされる気分になることが何度もある。一日の行動を終えパチパチと燃える焚き火にあたりながら紅茶をすする時間がことのほか気分をほぐしてくれる。そうした瞬間に出会うために歩きつづけているのだろうか。星野道夫の世界にどこか似ているかもしれない。

 冬のカナディアン・ロッキーのもう一つの魅力は、厳しい自然や自己と向き合い、それらを克服する喜び。カナディアン・ロッキーは奥深い。ひとたび山に入ると何日も何十日も誰にも会わない隔絶された世界だ。

 ときとして厳冬の北極圏に匹敵する寒気に見舞われる。テントも寝袋もウエアもすべてが凍りつく。行動食のチョコレートは噛み砕けないときもある。皮膚が焦げ茶色に変色し切断寸前の凍傷を患うのも恒例になってしまった。

 カナディアン・ロッキーは内陸にもかかわらず積雪量が多い。一晩でテントがすっぽり埋まる大雪もめずらしくない。スキーを履いても腰まで潜る深雪。いつおさまるとも知れない猛吹雪。地図とコンパスと自分の勘だけが頼り。行けど進めど目的地にたどり着けない不安にさいなまれながらの旅がつづく。これらすべての緊張感、恐怖感、不安感がないまぜになって、熱い興奮がやってくる。

 たしかに人里離れた冬山に何十日も一人で入るのは、精神的にも肉体的にもしんどい。テントのなかで何度も同じことを思う。

「今回もまた背伸びした計画を立ててしまったな。町にいれば暖かい部屋で快適にすごせるというのに。どうしてまた来てしまったのだろうか……」

 種々のリスクや苦労の見返りが、ほんの一瞬の光景やわずかなくつろぎの時間だとするならば、犠牲にしているものが多すぎると言えなくもない。けれども、平和な街で、積極的に、主体的に生きることもなく、ただ追われるままに流されながら送る人生は私には耐えがたい。「人の可能性は二十歳代で何を成したかによって決まる」という言葉を聞いたことがある。今を生きてこそ、その先の可能性がひろがるということであろう。限りある人生、生きている証を求めて歩きつづけたい。

 私はかつてクライマーだった時期がある。周囲から有能と期待されたクライマーの半数以上は二十歳代で死んだ。

「僕は三十歳まで生きているかどうかわからない」と言っていた同じ山岳会の先輩・中嶋正宏は、二十五歳の誕生日の次の日に人生を終えた。一人で出かけた冬山で墜落死亡した。

 登山の世界では、真摯に追求すれば、死ぬか壁にぶちあたるか、どちらかであろう。現に私の周りにいた妥協しない人の多くは早死にした。自分はクライミング界で、求道者のごとくには、その限界を極められなかった。妥協して逃げたから生き延びることができた。クライミングでは限界まで努力した結果、諦めたのではなく、怖くなってなんとなく止めてしまった。

 イスラエルのテルアビブ空港で二十六人を無差別殺害した後、自らの痕跡を消すために手榴弾で肉片と化した日本赤軍の奥平剛志は、「俺は地獄へ行っても革命をやるんだ」という言葉を最後に残した。私自身は、革命の理念にも、テロリズムの暴力にも、与する者ではない。ただ、その是非はともかく、理想を貫くとはそういうことだろう。多くの人たちは、なにもそこまでしなくてもと言うだろう。だが、何事も失うことなしに前に進むことはできない。山も人生も……。

 星野道夫の世界にも、若くして果てたクライマーにも、極左・過激派の兵士にも、私は同様に「ピュアな心」を感じる。そして自分は、死を賭してまで理想を貫く彼らの領域に到達できなかったという思いが、いまだにある。そうした満たされぬ思い、クライミングで超えられなかった壁を穴埋めするかのように、今、独りで冬のカナダに通っている。

 毎冬出かけているカナダだが、意気揚々と旅からもどってきたことは一度もない。もちろん数十日あるいは数カ月の旅を終え、無事町にたどり着いた日の気分は最高だ。ひさびさに浴びるシャワーに暖かい部屋、そして鳥のさえずり声にすら感激する。何気ない日常に感動するのは厳しい旅のつくりだす恩恵なのだろうか。それでも、町で数日すごすと、心にぽっかり穴があいてしまったような妙な感覚につつまれる。

 成功したときには、目標が低いから成功したのではないか、と悔恨の情にも似た思いが残る。失敗すれば自分の弱さを痛感させられる。いずれにしても、旅を終えたあとにやってくるはずの高揚した気分も、達成感も、まるでない。理想の自分はもっと高いところにあるのではないかという思いがつねにある。

 ひょっとしたら私は、無意識のうちに成功の余韻をかき消してしまっているのではないだろうか。達成感には甘い罠が潜んでいる。ひとつの自信を手にしたときを境に、以前にも増して上昇する人と堕落してゆく人がいる。自分なりに死にもの狂いで何かに取り組み達成したところで、別の人にとってはいとも簡単にやってのけられてしまった、というのはよくある話だ。ひとつの成功を頂点に堕落してゆく人を、これまで何人もみてきた。

 成功の余韻に浸っているうちに、時はどんどん流れてゆく。過去の失敗にとらわれているうちに、次にやってくる機会を逃してしまうという。成功もまた同じだ。次の段階に通じることなしに、成功したと、あるいは達成したとは言えまい。

 未来に通じてこそ、過去の実績と呼べるであろう。飲んだ席の自慢話にとどまるサクセス・ストーリーならば、とっとと忘れたい。そんな暇があったら、次なるテーマを模索したほうがましだ。そもそも長い時間をかけて地道に努力をすれば、あるいは心を入れ替えて積極的に動き出しさえすれば誰にでもできてしまうことなど、価値はうすいだろう。

 自分にとって最終目標などない。ひとつの目標が終われば必然的に次があらわれる。

 私のこれまでの経験では、一生懸命やればやるほど自信をなくした。追求すればするほど壁は高くなった。

 旅立ち前には決まって恐怖に怯える。そして迷う。自分がほんとうに求めているのは何なのか。ジレンマに悩まされながら旅がはじまる。そして計画を無事終えると、今度は別の壁にぶつかる。自分は果たして全力を出しきったのだろうか、と。あるいは、自分にはもっと別の選択があったのではなかろうか、とも思う。迷いはいっこうになくならない。

 だが、迷いが新たな挑戦の必要性を導いてくれているのだと言える。満たされぬ思いを生かすも、殺すも、自分しだい。

 私は生きているかぎり迷いつづけるであろう。動きつづけているかぎり自信をなくしつづけるであろう。もし、これからの人生で迷いが吹っきれ、自信に満ち足りた時に出会ったならば……。そのときはきっと、私のなかの精神が死んだ時であろう……。

〈『達人の山旅1』(みすず書房)に掲載〉

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冬季カナダの旅

 木枯らし吹く季節になると冬季カナダ遠征の準備がはじまる。冬のカナダ通いはかれこれ七回目になる。毎年トライしつづけるのは、やはりいまだに満たされぬ思いにとらわれているからであろうか。

 意気揚々と旅から帰ってきたことは一度もない。予定どおりにいかないときは、自分の体力的、精神的、技術的な弱さを痛感させられる。いっぽう、成功したときには、自分の企画が甘いからできてしまったのでは、と悔恨の情にも似た思いが残る。いずれにしても無事帰れる喜びと同時に悶々とした思いにつつまれる。

 極北カナダの旅はそれなりにしんどい。最低気温マイナス四十度Cはざらである。細心の注意を払っても、大自然の猛威にはあっけなく負けてしまう。皮膚が焦げ茶色に変色し切断寸前の凍傷を患うのも、毎冬恒例になってしまった。重いザックを担ぎ背丈以上も積もる雪のなか、ラッセルをくり返しているうちに知らぬ間に疲労骨折し、誰もいない山中で死の不安にかられたこともあった。ひとたび山に入れば、動物以外の生き物に会うことは稀である。何日もずっと一人。奥深い山中でテントのなかで何度も同じことを思った。

「今回もまた背伸びした計画を立ててしまったな。町にいれば今ごろは暖かい部屋で美味しいものが食べられるというのに、どうしてまた来ちゃったんだろう……」

 性懲りもなく幾度となく出かけてしまうのは、山のなかに宿る不思議な引力にひかれてしまうからなのだろうか。実際、厳しい自然条件のなかに身を置くと、妙な充足感につつまれるやさしい時間にしばしば出会う。テント設営、炊事、ライターで火をつけるといった日常では気にもとめないようなささいなことも、山では生きるための行為に変わる。一日の行動を無事終え、コーヒーを飲みながらローソクの明かりで日記をつづっているとき、妙に落ち着いて満ち足りた自分に気づいたりすることがよくある。きっと厳しい自然条件のつくりだす恩恵なのだろう。

 けれども、旅を終えたあとに起こる達成感を感じることはあまりない。ひょっとしたら無意識のうちに旅の余韻を掻き消してしまっているのかもしれない。ひとつの自信を手にしたときを境に、以前にも増して上昇する人と、堕落していく人がいる。自分なりに時間、資金、労力など、あらゆる投資をして何かを成し遂げ感激したところで、他の人にとっては、いとも簡単にできてしまったというのはよくある話である。

 

 ひとつの成功を機に堕落してゆく人をこれまで幾度も見てきた。「人間やれば何でもできる」と過去の自分にしがみついているうちに時はどんどん流れてゆく。過去の失敗にとらわれているうちに、次にやってくるチャンスを逃してしまう。成功もまた同じこと。次の段階に進むことなしに、果たして成功したと、あるいは達成したと言えるだろうか。現在および未来に進んでこそ、過去の実績と呼べるであろう。飲んだ席の自慢話にとどまる程度のサクセス・ストーリーならば、そんなものは捨てた方がマシである。

 自分にとって最終目標はない。ひとつの目標が終われば、必然的に次が現れるのだから。わたしのこれまでの経験では、やればやるほど自信をなくした。追求すればするほど壁は高まった。旅立ち前には決まって「自分はほんとうに冒険を求めているのだろうか」というジレンマに悩まされる。そして計画を無事終えると、また別の壁にぶつかる。自分は果たして極限まで努力したのであろうか、と。だがしかし、こうした迷いこそが新たなるチャンスを出会いを導いてくれているのではないだろうか。自分の考えが正しいと確信しないかぎり、迷いがなくならないかぎり、多くのチャンス、多くの可能性も尽きることなく広がってゆくように思う。

〈『山がくれた百のよろこび』(山と溪谷社)に掲載〉

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2002年 冬季カナディアン・ロッキー南部単独縦走1200km  

カナダ・ロッキー山脈のファーニからジャスパー間1200kmを山スキー単独縦走

積雪季におけるカナダ・ロッキー山脈縦走としては、史上最長記録となった

果てしなき雪原

 寒い季節になるとカナダに出かける、というのがここ数年のパターンである。極北の地を自転車で走ったり、山スキーを履いて雪山を歩いたり、あるいはモチベーションのないときは町はずれに雪洞を掘って長期滞在した。

 2002年の冬は、カナディアン・ロッキー南部を5カ月かけて山スキーで縦走した。東京から九州と同じくらいの距離である。厳冬季には麓の町でも氷点下30Cを下まわった。

 こう言うと、なんだか大がかりな冒険旅行にでも行ってきたように聞こえてしまう。しかし、大きなタイトルほど内容がともなっていないのが世の常である。今回のカナダ行もまた例外ではない。5カ月ぶっ通しで補給なしで歩いたわけでは、もちろんない。こま切れ縦走である。1回につき2週間分の食料・燃料、冬山用具一式、スキーなどを担いで入山。食料がなくなるたびに下山して町で補給という方法をくり返した。食料調達のために里へ下りる、と言いたいところだが、これも補足したい。町での準備は4日もあれば足りるが、悪天を理由にずるずるとすごしてしまうのが、私のいつものパターンだ。大それた計画でも何でもないのである。

 カナディアン・ロッキーはカナダの大陸分水嶺をなし、南はアメリカの国境から、北はユーコン準州付近までのびている。本州の長さとほぼ同じくらいの距離である。当初の予定では、ひと冬でカナディアン・ロッキーの南端から北端までの2500kmを歩こうと思っていたものの、あとに述べるような事情で南部だけになってしまったのである。

 「縦走」という言葉を用いたが、日本で言われる縦走の意味合いとは多少異なる。凍結したクリーク(小川)などの水系沿いに峠を越えながら登下降をくり返してゆくスタイルである。北米では「山スキー縦走」というと大部分はこのスタイルをさしている。稜線を忠実に辿るわけではないので、今回のルートの平均標高は20002500mくらいである。日本国内だと上信越や北アルプスの立山から槍ガ岳が、地形的に似ているかもしれない。

 静寂につつまれた冬のカナディアン・ロッキーで人に会うのは稀である。ルートにもよるが、すくなくとも今回の縦走においては、入山下山日を除いて人に会わなかった。時期によっては国立公園全体で自分ひとりというときもあった。

 冬のカナディアン・ロッキーは内陸にもかかわらず積雪量が非常に多い。ワカンやスノーシューでラッセルしていたら「クレイジー」と言われるくらい雪は深い。厳冬季の谷川岳一ノ倉沢や黒部丸山のアプローチと同じかそれ以上に潜るので、スキーができようができまいが足まわりは山スキーが欲しくなる。移動距離はそのままラッセル距離となる。

 移動距離は長いけれどスキー技術は不要だ。全般的に平均斜度がゆるいのと、雪が深いので転倒してもダメージは少ないからである。私のゲレンデ・スキー歴はゼロ。山スキーを履くのは、今回が3回目である。縦走経験もさほど関係ないと思う。国内外を含めて2回しかしたことがない。それでもなんとかなってしまう程度である。

 ルートの大半は水系沿いなので、ルートファインディングは簡単である。ルート選びにおいては、つねに「もっとも雪崩の危険の少ないところを通過」という安全指向なので、雪質、雪崩に関する知識もほとんど必要ない。

 冬のカナダと聞くと「極寒の地」をイメージする人が多いようだが、気象条件は場所によって大幅に異なる。カナダの面積は日本の27倍。北と南では、東京と赤道くらい離れている。今回歩いたところは、カナダのなかでは比較的温暖な地域である(あくまでカナダとしては)。麓の町でも最低気温が氷点下30Cを下まわる日もあるが、暖かい日だと1月でも気温はプラスになる。

 ルートに関しては細かい計画は立てず、そのときの気象や積雪状況、体調によって考えることにした。沢木耕太郎の『深夜特急』と星野道夫の写真集をミックスしたような気ままなひとり旅と言ったほうがいいかもしれない。いつもの冬のカナダに出かけるようにトレーニングもせず、ザックひとつで成田を飛び立った。

 準備がずさんじゃないですか、と横槍を入れられそうだ。しかし、長い時間をかけて地道にトレーニングを重ね、マニュアルを暗証するほど熟読しながらも、同じ失敗を何度もくり返す人をこれまで大勢見てきた。なかには準備に精を出しただけで出発地点にすら立てなかった人もいた。彼らにとって準備とはいったい何を意味したのだろうか。重要な何かが欠けていたことだけはたしかだ。

 そもそも、あらかじめできると分かりきっていることをしたところで、感動はないだろう。死んでしまったらおしまいだと言うひともいるが、生きることもなく死ぬこともなくいたずらに歳をとりつづけるだけの人生をおくるくらいならば、たとえ志半ばに倒れても早死にしたほうがマシだ。

 大切なのはまず出発することだと思う。あとは流れに身をまかせるしかないだろう。

 2002114日、アメリカの国境から約50kmにあるファーニの町から歩きはじめた。軽量化したとはいえ2週間分の食料・燃料、テント、シュラフ、炊事用具一式、防寒具など冬山用具を詰め込んだザックはずっしりと肩にくいこむ。重荷を担ぐのは3年ぶりである。歩きはじめて1時間ほどで肩が筋肉痛になってしまった。初日からめげてしまった。この調子で半年ちかくも歩けるのだろうかと早くも不安になる。

 雪はしんしんと降りつづいた。周囲の木々は、綿菓子のようにふっくらとした雪をまとっている。あたりはひっそりと静まりかえり、落ちてくる雪がジャケットにあたる音だけが聞こえてくる。

 このあたりはカナディアン・ロッキーの端にあたる。絵はがきで見るような急峻な岩山や氷河、大きな湖など、いわゆるカナディアン・ロッキーを象徴するような光景はあまりない。大部分が深い森からなり広大な裾野が広がる。起伏は少ないので歩行は楽だが、風の影響は強い。それでも、これまで経験した体感温度氷点下80Cを記録したカナダ東部ラブラドル半島に比べれば、温室みたいなもの。それに最初の1カ月はウォーミングアップを兼ねて、よりやさしいルート、安全なルートと探しているうちに、8割をロギング・ロード(林道)というコースになってしまった。トレースはないが、ルートは明瞭である。場所によってはスノーモービルの跡がうっすらとついている。地吹雪が激しくなったところでホワイトアウトの心配はない。

 クロウスネスト峠、エルクフォード、エルクフォード川、カナナスキス、スプレイ湖をへて400km進み、2月初旬バンフの町に着いた。

 町に滞在中は、何かと雑用に追われる。まず、はじめに荷物整理。行動中びしょびしょに濡れたテントやシュラフを乾かす。ウェアやスパッツなどを含め破損箇所のチェックをすると、次の区間の情報集めにとりかかる。

 カナディアン・ロッキーの山スキーガイドブックは現地で何冊か出ている。しかし、いずれも日帰りか12日程度の解説がほとんどで、今回のような長期になると参考になる記述はない。ガイドブックに載っていない情報は、国立公園事務局やインターネットで調べたところでやはり分からない。地形図でイメージするしかない。等高線を読みとりながらおよその距離、標高差、雪質などをつかむ。毎回の行程が2週間前後なので食料をひっくり返しているうちに。あっという間に2日くらいたってしまう。

 ルートが決まると次は食料の買い出し。一度に2週間分の食料を購入する。レジで無造作に詰め込むと、90リットルのザックはそれだけでいっぱいになる。食料だけでけっこうな重さである。これを担いで歩くのかと思うと、やはりもう少し食料を削るべきかと悩んでしまう。長期縦走における食料計画には、微妙なかけひきがある。極端に減らせば体力は低下し、持ちすぎればザックが重くなり体力を消耗する。

 2週間の入山で持っていくのは、オートミール15kg、インスタントラーメン15個、マッシュポテト03kg、ティーバッグ40袋、砂糖07kg、ビスケット09kg、チョコレート09kg、ピーナッツ05kg2週間分で6kg程度である。おかげで1回の入山で体重は34kg軽くなる。これをストイックと見るかは価値観の問題だろう。約20日間断食(1200カロリーのみ摂取)しながら南アルプス全山縦走を行った記録もある。その種の山行に比べれば、今回の縦走などグルメツアーみたいなものだろう。

 今回の装備類も紹介しておこう。特注品などなく、市販品に手を加えることもせず、そのまま使用した。テントは外張りなしの本体のみ。シュラフはダウンの適合温度・氷点下23C用。ウェア類は化繊のアンダーウェアに薄手のフリース、中綿なしのゴアテックスジャケットの組み合わせで、ダウンジャケットは持参しなかった。スキー、バインディング、プラスチックブーツ、コンロ、コッヘルなどいずれも日本の冬山に行くときと同じであるが、特別な装備もいくつかある。

 山が深いカナディアン・ロッキーは、エスケープがむずかしい。雪は深いのでスキーの故障は致命的である。スキーおよびバインディングの破損に際して、脱出用のスノーシューはつねに持ち歩いた。

 野生動物の宝庫でもあるカナディアン・ロッキーでは、危険な動物が少なくない。クマは春先まで冬眠しているが、クーガー、オオカミは一年じゅう行動している。危険な動物対策用にクマ避けスプレイを持参した。日本では馴染みがうすいが、北米ではたいへんポピュラーである。強烈な香辛料エキスで動物の目がいっとき見えなくなるというものだ。

 春以降のクマが活動する時期は、テント内に食料を置くことは禁物である。食料はつねにテントから離れたところに置かなくてはならない。食料をクマから守るためにナイロン性の防水バッグも必需品である。

 緊急用の無線機はあえて持参しなかった。いざとなったときの後ろ盾があると緊張感がゆるみ、事故につながるように思えたからだ。

 軽装すぎるのではという意見もあったが、装備の不備が原因で致命的な結果を招くこともなかったので、大きな選択ミスはなかったと考えてよいだろう。一部のヒマラヤやヨーロッパ・アルプスで活躍する第一線級のアルパイン・クライマーから見れば、装備に頼りすぎといわれるかもしれない。氷点下30Cを下まわる冬のアイガー北壁をシュラフなしで登っている記録だってあるのだ。高価な装備をそろえたところで、アクシデントに見舞われないという保証はない。装備云々よりもさまざまなトラブルにフレキシブルに対応してゆくことのほうが重要に思う。

 バンフの町には6週間滞在した。季節はずれの寒波の襲来で、出発がのびのびになってしまった。3月初旬を過ぎても天候は回復しなかった。いっそのこと今回の計画を放擲してしまおうかとも思った。しかし2500kmの予定が、まだ400kmしか踏破していない。せめて当初の予定の半分くらいを目標に歩きはじめなければ。でも天気予報では雪マークが並んでいる。このぶんならあと1週間は出発できまい。迷いながらも、出発の決断を先のばしにしたままバンフの町にとどまり、その日その日を無為にすごしていた。真冬に出発したはずの季節は、いつの間にか春になろうとしていた。町での滞在が長引くとついつい腰が重くなる。このままずっと悪天候がつづけば行かないですむ、と思うほどモチベーションは低下した。それでも出発したのは、焦燥感という見えないバネにおされたからだろうか。

 

 3月中旬、好天の兆しをついてバンフの町を出発した。出だしから最高のコンディションである。適度にしまった雪に、やわらかな春の日ざし。あわよくば予定よりも早いペースで進めるかもしれない、との憶測はすぐに裏切られた。翌々日から連日のようにストームに見舞われた。ときおり雲の切れ間から一瞬のように陽がさしこんでくるほかは、どんよりとした灰色の雲におおわれていた。

 しかし、降りしきる雪もまた善し悪しである。クリークも河原も地つづきの雪原になっている冬は、川の上をそのまま歩くことができる。雪があれば場所を選ばずにどこでも幕営できる。雪のない時期は、近くに水場 のあるところを幕営地としてめざして歩かなくてはならず、知らず知らずのうちにその日の行動を制限される。積雪期であれば、暗くなったところがそのまま宿になる。雪と格闘しながら進んでいるようで、じつは雪と関わりながら旅を続けているのかもしれない。

 カスケード川、ウィモアー湖、スノウクリーク・サミット、レッドディアー川、スコキ渓谷、ベイカー湖、レイク・ルイーズ、レイク・オハラをへて400km歩き、4月初旬フィールドの町に着いた。

 

  フィールドから次の目的地ジャスパーの町まで350kmは、途中に町がないので3度に分けて歩いた。食料・燃料がなくなったらハイウェイに下山。ヒッチハイクで町に向かい補給し、元の地点にもどり再び歩きはじめた。

 4月の半ばをすぎるとクマたちは冬の眠りからさめる。シーズン最初にクマの足跡を見た日の夜は、クマが襲ってこないだろうかと恐怖につつまれ、いっこうに眠れない。風が木々を揺らす音や、自分のジャケットがテントの布地にふれる音にまで過敏に反応してしまうのもこの時期である。

 それでもクマの存在には、助けられることが多い。カナディアン・ロッキー西側は、太平洋に面しているため年間を通して降水量が多い。ヤブ漕ぎにも似た深い森のなかの歩行がつづく。大きなザックを担いでラッセルしながらの歩行は、ザックが木の小枝にひっかかったり、スキーが木の根っこにからまったりで、なかなか前に進ませてくれない。そんなときクマの足跡はよき道しるべになる。野生動物の直感なのだろうか。とにかく動物の足跡を辿ってゆくと、木々と格闘せずにスムーズに進める。なによりもだれもいない山のなかでほかの生きものが先に通ったのだと思うと、妙な安心感があった。

 冬の間は雪原と化していた凍結した川や湖は、やわらかな春の日ざしとともに少しずつもとの姿にもどりつつある。気温の上昇する午後の歩行はスリリングである。川や湖を横切るときは、綱渡りのようにバランスを保ちながらそっと足を前に出す。その瞬間ミシッといういやな音がする。不安定なスノーブリッジ状の雪の上でも、クマの足跡 にスキーを重ねてゆくとたいてい持ちこたえてくれた。それでも何度か氷を踏み抜いた。いずれも浅かったので靴が濡れただけですんだ。ぽっかりとあいた穴の下を流れる雪どけの川音を聞いていると、春の知らせのようでなぜか気分がなごんだ。

 春の時期にもっとも手を焼いたのは腐った雪である。一度はまると、スキーを履いてもお腹くらいまで沈んだ。湿ったセメントのように重く、一歩進むためにふんばると、もう一方の足が抜けなくなる。強引に抜こうとするとスキーは雪に埋もれたまま、登山靴だけバインディングからはずれる。こうなるとひと仕事である。スコップでスキーを掘り出さなくてはならない。10m進むのに30分も費やす。

 それでも特別焦ることはなかった。雪がゆるむのは午後だけである。同じ場所でも午前中いっぱいは、表面がクラストしているので潜らずに進める。トレースのまったくない雪山を夏の縦走よりも速いペースで歩いてゆく。春の訪れと亜ともに日照時間が長くなるので、115時間くらい行動できる。出発前のトレーニングなどしなくても、毎日歩いていれば自然と体は慣れてくるものだ。少々悪天候に見舞われようが、雪が深かろうが、厳冬期よりも距離はかせげる。これまでのツケを取りもどすかのように歩きつづける。

 北上するにしたがってこれまでの樹林帯から、森林限界より上の雪原の歩行に変わってきた。これまでのように風が吹いても木々のきしむ音は聞こえてこない。雪面にのった雪とも氷とも区別のつかない粒状のものが、風とともに無情に顔面をたたきつけるだけだ。雪、氷、冷えびえとした岩以外のものは見あたらない。ふり返ると広びろとした雪原に自分の足跡だけが、見えないところまでつづいている。

 見わたすがきり貸し切り状態である。風のない日は、昼前から大休止をきめこむ。ザックを放り投げて、雪面にテントマットを敷き、コンロをとりだしお茶をわかす。午前中から「午後の紅茶」の気分である。やわらかな春の日ざしと適度な疲労があいまって、いつの間にか心地よい眠りを誘う。寝転がってぼんやりと空を眺めているだけで不思議な充足感につつまれる。「午後になると雪質がゆるみ、雪崩がおきやすくなる」といった山の鉄則など、ふっとんでしまいそうな包容力にも似た大自然のスケールを感じる。悪天候につかまり予定が遅れるたびに悶々としていた日々が、ちっぽけなできごとに思えてくる。これまでの負の思いが帳消しになったとき、旅はひとつの節目にさしかかるのだろうか。

 フィールドからアミスクウィ峠、ブラベリー川、ハウズ峠、ハウズ川、サスカチェワン・クロッシング、ノース・サスカチェワン川、ナイジェル峠、ブラゼウ川、ブラゼウ湖、ポボクタン峠、マリーン峠、マリーン湖、スカイライン・トレイルと雪の上を歩きつづけ、5月中旬ジャスパーの町に到着した。

 里ではすっかり初夏のかおりがただよっていた。町の広場の芝生では、地元の若者が日光浴をしている。日なたに置いた温度計は30Cちかくまで上昇している。昨日までの雪山がまるで別世界のようだ。

 5月下旬、ジャスパーの町で休養したのち、ふたたび歩きはじめた。しかしどうしたことだろう。気合がまったく入らない。ヒザの炎症ともあいまって、その日のキャンプ地に着くころには、すっかり意気消沈してしまった。これまでなんとか繋ぎとめていたモチベーションは、すっかり周囲の山々に吸収されてしまったような、妙な気分であった。もはや葛藤はなかった。また来ればいい……。

 528日、当初の予定の半分にも満たないとこころで、積雪期カナディアン・ロッキー縦走は終わった。

 こんな優柔不断な旅でも苦労話だけで塗り固めてしまえば、立派な冒険絵巻がなりたってしまうのだろうか。縦走といえばほとんどカナディアン・ロッキーの経験しかない私にとって、今回の縦走がどの程度の難易度にあたるのか、自分でも分からない。体力的にはオーストラリア大陸自転車横断の百倍くらい大変に感じた反面、死の危険は冬季登攀とは比較にならないほど少ない。気象条件においても過去数回訪れた冬のカナダのなかでは、むしろ楽な部類に入るだろう。

 しかしあくまでも自分がそうお感じただけである。どの分野にも共通すると思うが、実力がなければないほど大変に感じるし、また経験が増えればそれだけ感動は薄れていくものだ。これまでにも「こんなマゾ的な旅は二度とごめんだ」とコメントされてちるような旅でも、いざ自分でやってみたらバカンスなみに快適だったことは何度もあった。逆のパターンもまた何度も経験している。感性はつねに客観性を歪めているように思う。

 クライミングの世界と異なり、技術よりむしろ自然条件に左右される縦走などの分野では、難易度をグレーディングすることはむずかしい。それゆえ当事者の主観がそのまま難易度に現れてしまうケースが多々見られる。クライミングに比べ自転車や徒歩旅行の冒険ものの記事は、概して誇張が多いように感じられる。

 多くの人はジャーナリスト(編集者)の不勉強だと責任転換してしまうが、むしろ一方的に流される情報を安易に鵜呑みにする読者に問題があると思う。自分はこうした状況に風穴をあけるべく、冬のカナダを媒体に表現しようとしているのではないだろうか。

「前人未踏の冒険はなくなった。課題はあらかた解決された」とよく言われる今日だが、発想しだいで「おもしろいテーマ」を見いだすことはできる。冬のカナダといえばアイス・クライミングかゲレンデ・スキーが定番だが、人気エリアから一歩はずれると静寂につつまれた手つかずの自然が、まだまだ広がっている。アクセスも比較的楽で許可などめんどうな手続きもほとんどない。そうしたわけでここ数年、寒い季節になるとしぜんとカナダに足が向いてしまうのである。

今年も、この号が出るころには、ジャスパーにいるだろう。そこをベースに1、2カ月間滞在し「なぜロッキーを歩くのか」じっくり考えたい。移動主体の旅では見えなかった何かをつかめれば、と思っている。

〈『山と渓谷』20033月号に掲載〉

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1995〜99年 冬季カナダ縦断1万5000km 

カナダ北極圏沿岸よりアメリカとの国境まで、カナダ西側を縦横無尽に、厳冬季をはさみ4回に分けて縦断した

移動手段の内訳は、自転車1km、徒歩2000km、山スキー1000km、カヤック1400km

厳冬季の自転車踏破や山スキー縦走としては、一部エリアで世界初記録にもなった

ひとつの可能性を見切る時、新たなる可能性が始まっていた

辿ってきた土地の記憶

  1999年2月、カナダで迎える冬は4度目だった。ロッキーの長期縦走は無雪季を含めると、すでに2度経験していたので旅立ち前からくる不安や困難を感じることは少なかった。今回は、バンフ国立公園のボウ湖からアメリカ合州国との国境となるウォータートン・レイクス国立公園まで、約750km。山スキー500kmと徒歩250kmの4カ月の旅だが、起こりうるであろうアクシデントの類もあらかた予測がついていた。装備に関しても準備は万全、と思えるほどの余裕があった。そして、計画段階で見通しのついていた4回目の旅はすこぶる順調だった。と書きたかったが、そうはうまくはいかなかったのが「積雪期ロッキー山脈縦走U」である。

 それは、技術的なことでも、体力的なことでもなかった。これまでつづいてきたモチベーションがとうとう切れてしまったのだった。それにしても前の冬は気合が入っていたな。それにひきかえ今回は……。

 「人の一生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があるように長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても鮮明で、どんな些細なことでも心を震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。そのかわりに、しきりに辿ってきた土地の記憶だけが鮮明になってくる」(『深夜特急』沢木耕太郎・著)。

 カナダの旅もやがては終えなければならない。考えれば考えるほどに過去の記憶へと遡っていった。カナダの旅をはじめた4年前へと。

 

冬の自転車の旅(1995年)

  自転車をとめて休もうとするとたちまち全身が凍りつくような寒さに襲われた。カナダ北部ノースウエスト準州のグレートスレイブ湖周辺は、これまで経験したことのない寒さだった。マツ毛のまわりには霜がついているのが自分の目で見える。そのままにしておくと吐く息でマツ毛についた氷の結晶は、どんどん大きくなり視界をさまたげた。低温下でチョコレートがガチガチになることは知っていたが、砕いたチョコレートを食べるとかき氷のときみたいに体の内側から冷えてくるとは知らなかった。

 腰をおろして休んでいられるのは数分が限界だった。雨具兼用の一重ゴアテックスのヤッケ、薄手のフリース、オーロンの下着がすべてでスペアはなかった。冬を越すつもりなんてなかったから、オーバーミトンは小物袋をばらして作った。夜は零下40Cくらいまで下がっていた。シュラフは適合温度は零下7度C用。10年来使ってぺしゃんこで羽毛が寄ってしまって、所どころシュラフカバー状態だった。でも寒いことを除けば夏よりも楽しいことが多かった。

 ノースウエスト準州の交通量はきわめて少なく、1日1台だけという例外をのぞいても。田舎町へ至る道路ですれちがう車は1日数台だった。それがさいわいして稀に出会う人との距離は密だった。

 「寒くないか。ホットコーヒーあるぞ」

 雪まみれになって走っているとほとんどの車がとまってくれた。車に乗っているのはたいがいネイティブ(土着のインディアン)だった。カナダ北部は白人よりもネイティブの方が圧倒的に多い。一見無愛想な彼らはどこへ行ってもみなフレンドリーで、天気の悪い日にいきなりぽんとテントや家に行っても泊めてくれた。

 雪があれば場所を選ばずにどこでもキャンプができた。特にノースウエスト準州は全般的にフラットなのでどこでも水にありつけるとはかぎらない。雪のない時季であればちかくにクリーク(小川)のあるところをキャンプ地としてめざして走らなくてはならず、知らず知らずのうちにその日の行動を制限された。積雪季であれば、暗くなったところがそのままその日の宿になる。冬の訪れとともに、あらゆる束縛から少しずつ解き放たれていくような気分が妙に心地よかった。

 

 「でも冬の自転車というのはいったいどういう発想?」

 それを聞かれるたびに夏の旅を思い出さずにはいられない。旅をはじめたのは95年6月からだった。7月、8月にかけてユーコン準州、アラスカを自転車とカヌーで旅した。これが……、物足りなかった……。ガイドブックでは最後に残された秘境なんて紹介されていたけれど、観光地になっていた。ユーコン河で出会ったのはネイティブたちよりもドイツ人や日本人の方が多かった。

 別に浮世離れした桃源郷のようなものを求めていたわけではなかったし、なんだかんだいって楽しんでいたのだが、旅の思い出として残りそうな場所ではなかった。当初考えていたアメリカまで自転車で南下という発想も自然に頭からはなれていった。でも、代わりにどこへ行ったらいいのだろう。ふと思いついたのがユーコンの隣のノースウエスト準州だった。北緯60度以北で北極圏にもまたがり、冬の平均気温がマイナス30C

「雪のなかを自転車で? 聞いたことないですよ」

「町と町の間は何百kmとなにもないんですよ。おまけに冬の寒さはハンパじゃないそうですよ」

代わる代わるに聞かされた言葉が、逆に好奇心をふくらませていった。いったい自転車ごときでどうしてそこまで肩ひじ張るのだろうか。だが、そんな悠長な気分に浸っていられたのは初冬までだった。噂どおり楽ではなかった。

11月にもなると、すでに指先のほとんどが凍傷にかかっていた。手作業をするたびにかばいながらだったので、夏のでは数分ですんでしまったテント設営に1時間以上費やされた。ペグを持つと金属部から冷たさが伝わりすぐに手の感覚がなくなる。ペグを一本打つごとに手をたたきつけたり、血のめぐりを感じるまで股の間にはさんだりした。やがて強烈な痛みとともに感覚がもどると、再びペグを打った。

テントに入ってひと息ついたら突然、全身が激しく震えはじめた。凍りつくような寒さにもすでに体が順応していたはずだったが、いつもとちがっていた。真冬にカヌーで沈したときに体の芯から冷えていく感じで、低体温症の初期症状のようだった。すぐにコンロをつけようと思ったがうまくいかなかった。テントの内側は霜がはりついて冷凍庫のようだった。マットもシュラフもウェアも、なにもかもがまっ白に凍っていた。ライターのガスが低温下のため気化しにくくなっていた。服のポケットに入れて冷えた体で温めた。10分ほどしたらようやく小さな炎が浮かんだ。それまでの時間がとても長く冷たかった。

厳しい旅をくり返しているうちに、自分の限界や可能性が少しずつ広がっていくような気がした。同時に、こうしなければ自分の存在を証明できないのかとも思った。この旅は犬の遠吠えだったのか……。

「これ以上悪化させると落としますよ」

 数日後に着いたノースウエスト準州州都イエローナイフの病院で、まっ黒に変色した鼻を見たドクターはそういった。やっとやめる口実ができたと少しホッとした。自分の意思とは、しょせんその程度のものだったのかもしれない。

無雪季ロッキー山脈縦走(1996年)

  カナディアン・ロッキーと聞いて思い浮かべる光景といえばなんだろう。氷雪をまとった急峻な岩山、氷河、コバルトブルーに輝く湖。もちろんすべてそのとおりであるが、

これらはロッキーのほんの一面にすぎないということを、このときのカナディアン・ロッキー縦走1500kmの旅で知った。ふと日本の山にいるのでは、と思わせるような光景が幾度となく見られた。特に山脈西側は太平洋に面しているため年間を通じて降水量が多い。鬱蒼とした深い森、湿地帯、無造作にのびた木の根っこや深緑色の苔におおわれた地面、朽ちた木の枝、原始の香りただようもうひとつのロッキーがあった。

外国人がめったに訪れないアジアの奥地を旅したときみたいだった。峠を越えた向こうには何があるのか分からない、でもちょっとのぞいてみたい。いざ行ってみたところでやはりなにもない、というのがたいてのパターンであるとは分かっていても好奇心をそそる無形の何かがやどっているはずだ。そう確信したことが、4カ月にわたり入下山をくり返すきっかけとなった。

 「よし、こんどはロッキーを歩きまくるぞ!」と意気揚々に旅立ったわけではなかった。これまでの新しい旅が、いつもマンネリから脱したくなって生まれてきたように、カナダ北部の旅が急速に色あせてきたのが始まりだった。凍傷で2カ月間の帰国をはさんで再びノースウエスト準州州都イエローナイフにもどったのは96年3月。だが、この地はすでに過去のものになりはじめていたと気がついた。あの厳冬季の旅がピークだったのだ、思い返したのは北の地がすでに暖かくなりはじめたころだった。すっかり惰性になっていた。

「今のままでいたら、いずれ動き出すことすらめんどうになってくる」

行くところはどこでもよかったのだった。カナダのひろい土地のなかでロッキーを選んだのは、なにげなく立ち読みしたアウトドア雑誌の長距離縦走の記事がきっかけだった。「俺もやってみようかな」

突発的で無計画だなんて横槍を入れられそうだが、きっかけなんてしょせんは思いつきだと思う。情熱が冷めないうちに動き出さなければチャンスは流れてしまう、というのをこれまで何度も見てきたのだった

 ロッキーでもっとも印象に残っているのは不明瞭な登山道と徒渉であった。ロッキーのトレイル(登山道)はコンディションのギャップが極端だった。写真集で見るような完璧なほどに整備されているのは全体のごく一部だった。踏み跡が不明瞭になったかな、と思ったころにはすでに分からなくなっていた。踏み跡らしきものが、途切れとぎれにあるのだが、獣道なのか、誰かが迷いこんでつけた跡なのか。それでも地図とコンパスとにらめっこしていると時が解決してくれた。

 それよりもやっかいだったのが秋の徒渉だった。9月に入ると急激に寒くなり、ひと月の半分ちかくが降雪に見舞われた。雪のなかで足を水に入れるのは少し勇気がいる。息を止めてつま先からそっとつける。水からあがり濡れた靴で雪の上を踏みしめると、頭がキーンとするような冷たさが足の裏から伝わってくる。止まったら感覚がなくなりそうなので、疲れていてもゆっくりと歩きつづけた。こんなときは標高が下がるにつれて雪は少なくなってゆくのを見ているだけでも嬉しい。

 夜は枯れ木をふんだんに集めて焚き火をする。濡れた靴や靴下を火にかざし、紅茶をすすりながらボーッとするこの時間がことのほか気持ちをほぐしてくれる。つくづくきてよかったと思うのは、いつもこうしたなにげない瞬間だった。桃源郷というのは自分の内なるものを通して存在するのかもしれない。

 

積雪季ロッキー山脈・山スキー縦走T(1998年)

 夏山に登って感動した人が自然と冬山をめざすように、「こんどは冬のロッキー縦走」となった。バンフからジャスパーへ500km。問題は寒気よりも積雪量。輪かんでは対処できないであろうことが必然的に山スキーとなった。とはいうもののスキーはこれまで一度もやったことがない。おまけに計画ではデポ地点からデポ地点まで2、3週間の行程である。予備日を含めた食糧や冬山装備一式を担ぐとなれば総重量50kgは超えそうだった。

 山スキーに関する入門書の類を何冊か立ち読みしたが、基本パターンや反復練習をくり返すことが長期縦走でどれだけ有効なのか、という疑問はぬぐえなかった。実践で使えるかどうか分からない技術の習得に時間を費やすよりも、いきなりやってしまった方が……。

 「スキー経験なしでいきなり1カ月以上の長期縦走? 無謀じゃないですか、いくらなんでも」

 経験というもの自体の定義が曖昧に思えたのは、これまたひとつの経験からだった。以前、登攀歴25年を誇りに持つ人と山に行ったことがあった。「山は突っこむだけが能じゃない」と豪語していた彼だったが、初級ルートながら出だしでいきなりスリップしてしまったことがあった。それが偶然のできごとに思えなかったのは、それからも些細なミスが連続したことだ。

 彼には技術、体力、精神力、知識、状況判断力といったものが身についていなかったのだ。費やした時間よりも問題なのは内容だと思う。要するに能力がどこまで到達したかであろう。

 クライミング以外の分野を知ってからも、同じことは何度か目にしてきた。そんな世界に反発したくなってしまったのは、あるいは自分自身の人生に対する疑問を感じていたからなのかもしれない。

  1月下旬、とにかく歩きはじめた。冬山とは思えないほどの好天がつづいていたが、遅々として足どりは進まなかった。好天による気温上昇で雪がゆるみはじめてしまったのである。1時間以上もがきつづけてわずか300m。スキーをつけても腰まで潜ってしまう。2月の尾瀬を輪かんだけで単独縦走したときのペースより遅かった。

 「やはりもどろうかな……」

 歩きはじめて1週間もしないうちにはやくも弱気になってしまった。

 「町にいればいまごろは暖かい部屋で……。はっきりいって目的地である500km先のジャスパーの町まで行ける勝算なんてほとんどない……」

 でもどこかで周囲の目というものが自分を支えていた。ここで引きかえしてしまったら、やはり顔向けできない、という思いが常にあった。ひとり旅でいちばんおそろしいのは、自分に酔ってしまって、他人の目が気にならなくなってしまうことだ。

 実際、自由奔放や気ままを標榜する旅人を見ていると、だらけて沈んでいっているだけのような気がした。自己満足というのはアルコールの酔いみたいなもので適量を超えると、えてして現実と虚構の見境がつかなくなり、やがて虚構だけの世界へと落ちてゆく。それに周囲の目というものはしばしば自分自身の考えとも一致するものだ。

 その日なにげなくテントから顔を出して外を覗くと、プラネタリウムを貼りつけたかのような夜空がせまっていた。星空というのは不思議な作用があるのだろうか。ここへくるまでの精神的な葛藤がとるに足りない問題のように思えてきた。

 旅が順調に動き出した後に待っているのは、倦怠感かトラブルかのどちらかである。人のいない雪山でこんなことを思いたくないのは人情だが、これまでの自分の旅はいつもそうだった。ザックを背負うだけで脇腹に激痛が走った。すぐにそれが肝臓結石では、と思ったのは、一冊だけ持ってきた文庫本からだった。ひとりの青年が太平洋単独イカダ横断を試みたものの肝臓結石が原因で遭難しかけ、たまたま通りかかったカツオ漁船に救助され九死に一生を得たという記録である。

 「もし漁船に救助されなかったら自決するつもりでした」とこの青年は後のインタビューで語っていた。

 肝臓結石がどのくらいヤバイのかは知らなかったが、青年に自決を覚悟させたということは、ほうっておいたら耐えられないほどの激痛におそわれるのだろうか。「肝臓結石になったのも、頻繁に低気圧をくらって、今まで全然痛まなかったのが、ボロボロ落ちてきたのではないか……」と書かれていた。自分の場合は重荷でラッセルしたのが原因だったのか。医学の知識なんて、凍傷と風邪くらいしかなかったことがそっくりそのまま肝臓結石にあてはめてしまったのかもしれない。

 とにかく痛みは激しくなるいっぽうだった。痛みに負けてふかふか雪の上を整地もろくにしないでテントをひろげ、雪まみれのままシュラフに入った。寝返りをうつだけで冷や汗が出た。外は小雪がちらついているのが、テントのうすい布地をとおして伝わってくる。大粒の雪のようだった。

 「人がいるところまであとどのくらいだろうか。それよりも明日、さらに悪化していたら……」

 数日後、病院にて……。
 「肋骨にひびが入っていますよ」

 担当医はレントゲン写真のその個所を指さした。原因は疲労骨折とのことだった。どっちでもよかった。町に帰れたのだったから……。

 

 「やっぱり行くの? 天気がよくなるまで待つ気はないの?」

 「ケガの方もまだよくなってないし、ダメだったらすぐに引きかえすよ」

 雪景色が見えなくなるくらい大粒の雪が激しく降っていた。それにしても出発の日に大雪が降らなくても……。

 町に降りてきてから6週間が過ぎてしまった。冬が終わろうとしている、と思っているうちに、いつの間にか春を感じる季節になってしまった。冬の間は凍結していた川も徐々に解けはじめてきた。

 町で静養中、よく晴れた朝、窓越しにうつる雪山を見ても爽快さを感じることがなくなってから何日もたちはじめていた。これ以上町でウダウダするのは、精神的によくないと気づきはじめたのだった。ケガはまだなおっていなかったが。

 第三者から見れば愚かな選択にうつっただろう。はたから見たら人生をただ遠まわりしているだけにしか見えないことであっても、本人にとっては大きな意味を持っていることが少なくない。ある人にとっては旅自体がひとつの困難でありそれえを乗り越えることに意義を見いだしているかもしれない。別の人にとってはある種の困難から逃避しているのかもしれない。いずれにせよその人なりに悩みぬいた末に出された結論なのだ。

 出発するしかなかったのだ……。

 大雪のなかを歩きはじめると迷いは徐々になくなった。

 ゴールのジャスパーの町に着いたのは、それから34日後のことだった。今ふり返ってみるとこの時がカナダの旅の頂点だったような気がする。

積雪季ロッキー山脈・山スキー縦走U(1999年)

  一面の銀世界、湖も陸地もひとつづきの雪原と化したバンフ国立公園のボウ湖を99年2月に出発。今回のルートは、大半を水系沿いに凍結した川などにとったため技術的に問題となるような個所は前冬とは比較にならないくらい少なかった。ボウ湖〜ボウ川〜スプレイ川〜エルクフォード川と水系に沿って南下。標高とは関係なく南下するほど積雪は増えてきた。

 旅とはするどいエッジの上につま先立ちしているときのように不安定で、ちょっと興奮気味な状態を維持しているようなものだろう。緊張感と肉体的疲労をにじませながらあの手、この手でバランスをとりながらかろうじて立っている。旅は厳しくなればなるほど、非日常よりも日常が恋しくなってきてぬるま湯に浸りたくなるものだ。

 崩れそうな不安定な精神状態のときほどいい旅を、いい時をすごしていたのではなかったか。

 以前読んだ本で、旅イコール日常にはなり得ない厳しい現実があるということが書かれていた。あらゆるトラブルに遭遇し、人とぶつかったりしながら進んで行かなくてはならない。旅とはとてつもなくエネルギーを消費するものである。長距離マラソンのように快調なスタートを切ってもいつの間にかペースはスローダウンし、ついには走っているのか歩いているのか、倒れそうになっているのか分からなくなってくる。やがてはどこかで止めなくてはならない。

 そう気づきながらも歩き続けてきたのは、自分なりの新たなる理論を作り出したかったからなのだろうか。ロケーションが変われば、季節が変われば、人の考えなんていともたやすく変わってしまうような気がしたのは、これまでの経験的なことでもあった。

 いったいどうしてあんなに気負っていたのだろうか、と自分でもおかしくなってしまうくらい時の流れとともに自分の中のこだわりが消え去ってしまったことが幾度もあった。

 試行錯誤しながらも行き着く結論はおよそ決まっていた。

 「とりあえず歩き続けてみるしかなさそうだ……」

 

 冬から春へと季節の変わり目に入ると、水分を多量に含んだ降雪に見舞われる日がしだいに増え、やがて湿雪からみぞれになった。5月に入ると連日のように冷たい雨の中の歩行がつづいた。雪の季節にはじめた旅は、とうとうやわらかな日差しを感じる季節になってしまったころウォータートン・レイクス国立公園手前の小さな町に着いた。

 ゴールはすでに目と鼻の先だというのに、気分はむしろ落ち込んでいた。予想していた達成感などまるでない不思議な感じだった。町にしばらく滞在しているときにふと思った。それにしてもどうしてここまで歩き続けてしまったのだろうか。もはや自分では抑えきれないほどの強迫観念みたいな「しなければ」といった思いが知らず知らずのうちに自分の中にやどりはじめてしまったのではないだろうか。この長い道のりを抜ければ、あの山を越えれば、暗闇の中に差し込む一条の光のように希望に満ちた何かに出会うのではないかと模索している自分の姿をどこかで見たような気がした。「人間死ぬ気になってやれば何でもできる」なんて自分の過去におぼれ、ふんぞりかえっているうちに次にやってくるであろう新しい機会を逃してしまう。自信や誇りを持ってしまったら、あらゆる可能性はそこでストップしてつぃまうだろう。

 一人の人間がその人なりに努力して何かを成し遂げたところで、冷めた目で見れば、客観的に見れば、たいてちのものはたかがしれているものだろう。

 人は生き物としての寿命を迎える前に精神が死ぬという。情熱もやがては冷める。登攀をやっていたころも、アジアを放浪していたころも、自転車旅でもそうだった。

 「ひとつの汐どき」を見きわめるときから、新たなる旅がいつもはじまっていた。そのことに気づいたのは、登攀に見きりをつけてから、かなりの年月がたってからだった。

 99年5月20日、アメリカとの国境ウォータートン・レイクス国立公園に到着した。北極海沿岸イヌビックからユーコン準州、ノースウエスト準州、ロッキーへの、自転車、徒歩、カヤック、山スキーでの合計1万5千kmのカナダ縦断の旅……。ふり返る余裕ができたのは、ひとつの旅が確実に終わろうとしていたからなのかもしれない。足かけ5年におよんだ旅は、かろうじてカナダ縦断という軌跡を残すことができた。準備段階での不備や自身の能力的問題から計画変更を余儀なくされたことが幾度となくあった。もし冬を越せる装備があったなら、もしスキー技術を身につけてから山に入っていたならば……。

 過ぎてしまった人生を仮定法で語るのは、フェアではない。それでもあえて自身に問いかけてみたい。もし、自分の考えや行為が周囲から受け入れられていたならば、自分は果たして動きだしたであろうか。

これまでの旅を支えてくれたのはいったい何だったのだろうか。あるいは誰だったのだろうか。

〈『岳人』20002月号に掲載〉

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